伯耆国 汗入郡

みちがきごうぞくきょかん

道垣豪族居館

大山 道垣豪族居館

所在地

鳥取県西伯郡大山町茶畑

 

※境内は樹木葬のため一般の墓石が並ぶお墓とは違い墓地との境界が判り難いです。

見学は金華山正福寺さんの許可を得た上でお願いします。

城 名

道垣豪族居館(みちがきごうぞくきょかん)

別 名

道垣城(みちがきじょう)

築城主

不詳(藤原氏が推測される)

築城年

不詳(平安時代頃~鎌倉時代頃~戦国時代)

廃城年

不詳

形 態

居館跡

遺 構

郭跡、土塁、川堀

現 状

金華山正福寺、墓地、水路

備 考

史跡指定なし

縄張図

不詳

城 主

不詳

藤原氏名和氏、荒松氏福頼氏などが推測される。

参考資料(史料及び文献、郷土史など)

汗入史網(昭和12年9月 国史研究部 本田皎)

大山町 文化財ガイドマップ(大山町教育委員会)

年 表

12世紀頃~13世紀頃

平安時代頃~鎌倉時代頃

発掘調査によって12~13世紀頃に居館が築かれたとされる。

この時代に当地を治めた藤原氏名和氏荒松氏など在地豪族の居館と推定される。

16世紀頃

戦国時代

伯耆国富長城の城主、福頼左右衛門尉に関係する国人衆の居館と推定される。

概 略

現在は金華山正福寺が所在。

2006年(平成18年)頃、墓地の整地前に大山町教育委員会による道垣遺跡の発掘調査が行われている。

地層の年代測定から居館は12~13世紀頃に建造され、16世紀頃までに2回前後の拡張が行われたことが判明し、大山町内では平地で発見された居館跡は当居館が始めてとされる。

 

2008年(平成20年)には住職の庫裏(住居)建設のための発掘調査が行われ、中世以降の石垣が出土している。

石垣の規模は大きく、寺社の本堂など大きな建物の存在が推測される。

発掘調査から城域の範囲は1町(約100m)四方の方形居館とされ、居館の周囲に土塁を配し、土塁の外側には堀を巡らせることで防御力を高めていたと推定されている。

土塁の内側にも堀があったようで、内堀と外堀を持った居館の可能性も考えられている。

 

12~13世紀頃であれば名和長年の一族、或いは近しい有力豪族(荒松氏など)の居館、16世紀頃であれば伯耆国富長城の城主、福頼左右衛門尉の一族など国人衆の居館とも考えられる。

 

居館に関する文書への記述は現時点で一切見つけることができず、発掘による物的証拠からのみ居館(城郭)の所在を推測しているが、汗入史綱では周辺を羽田千軒と呼ぶ時代があったとして城下町が所在した可能性が伺える。

地理的には大山寺との関係が推測されるが、羽田千軒の名前の由来が大山寺侍、羽田氏に因むものであれば大山寺と当地の関係が判る可能性も。

写 真

2014年5月17日

金華山正福寺

金華山正福寺

金華山正福寺のお堂

金華山正福寺

土塁上の祠(南東隅)

南東側土塁

土塁上の祠(南東隅)

南東側土塁

南東の土塁(内堀跡)

南側土塁

南側の土塁

南側土塁

南側の土塁

南側土塁

南側の土塁(上部)

南側土塁

南側の外堀跡

南側外堀跡

南側の外堀跡

南側外堀跡

南西端の土塁

南西側土塁

西側の土塁

西側土塁

南西端土塁上から西側の土塁

南西端土塁

西側土塁の虎口

西側虎口

西側の堀跡(側溝へ改変)

西側堀跡

西側の堀跡(側溝へ改変)

西側堀跡

西側の堀跡(側溝へ改変)

西側堀跡

虎口付近には礎石の残骸

虎口付近

北側の郭跡(墓地)

北側郭跡

北側の郭跡(墓地)

北側郭跡

北側の郭跡(墓地)

北側郭跡

正面入口付近の東側土塁

東側土塁

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