伯耆古城図録
ほりじょう
堀城
鳥取県日野郡日野町別所(字堀)
別 名
-
遺 構
郭跡、堀切、竪堀、川堀、土塁、石積
現 状
堀八幡宮、田圃
城 主
(毛利方)不明(大殿さんと呼ばれる当城に在番した人物の伝承がある)
築城年
不明
廃城年
不明
築城主
不明
形 態
平山城
備 考
史跡指定なし
参考文献
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻四 大正5年10月 佐伯元吉)
陰徳太平記[香川正矩 編](明治44年5月 犬山仙之助)
伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)
伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)
伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)(昭和35年3月 印伯文庫)
日野郡史 前篇(昭和47年4月 日野郡自治協会)
日野町誌(昭和45年5月 日野町誌編纂委員会)
縄張図
堀城略測図(鳥取県教育委員会提供)
鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)
概 略
榎市堀八幡宮境内が城跡と伝えられる。
東側、西側、北側の三方は切り断った絶壁を以って天然の要害とし、南側には空堀を配して防衛力を高めた城砦と伝える。(日野郡史、日野町誌)
堀八幡宮境内を城跡と伝えるが、周辺の田圃に「的場」「馬場」「堀」と字名が残ることから実際の城域は堀八幡宮を含めた広い範囲であったとも推測できる。
一説には尼子方の守城の一つであったとされている。
後に毛利氏と尼子氏が伯耆での覇権を巡って争い、尼子氏が伯耆国から駆逐されると当城は富田街道を抑える要衝の一つとして、引き続き毛利氏によって運用が行われたと考えられる。
伯耆志 別所村の条 産土神八幡宮の項
村の北やや高き処にて東西十間南北六間の地にあり。字を永幸山と呼ぶ。古城跡と伝うれとも詳ならず。勧請年紀の社伝あれ共信じ難し。明暦二年の棟札あり。これより以往の棟札無し。
日野郡史収録では永幸山でなく永壽山としている。
日野郡史 堀八幡宮の項
元は八幡宮。明治元年に堀社とし、明治5年に社格村社に列する。明治6年、堀神社となる。
日野町誌 城跡の項
現榎市堀神社。昔は高見之庄で陰陽連絡の要所。道順は法勝寺-二部-津地-高見之庄-明地峠。毛利方の居城であったとされ、前三方は地形上、自然の要害を成す。後方は空堀を僅かに残す。羽柴秀吉の中国征伐で落城と考えられる。戦死した守将(大殿さん)の墓、五輪二基あり(鎌倉・室町様式)、小休場、出張、首塚の地名あり。
日野町誌では交通の要衝であったことから羽柴秀吉による中国攻めの際に攻撃を受け落城したと伝える。
戦死した毛利方の守将(石ぐろで大殿さんと称す)の墓、二基の五輪塔(鎌倉或いは室町様式)、その他首塚と云い伝えられる石ぐろがあり、地名に「出張」「小休場」「首塚」が残る。
富田街道については「広瀬-法勝寺-二部-津地ヶ峠-津地-渡-榎市-別所-三栗-明地峠-花見」としている。
日野町誌 堀八幡宮の項
堀神社は戦城の守護神で城跡に建てたもの。遠藤家は城方の子孫と云われる。太夫屋敷、太夫くぼの地名あり。
鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)では所在地が「日野町榎市」となっているが、別所川で区切られた南側は「日野町別所」(北側が榎市)であり、日野郡史も当時の所在を「日野村大字別所字堀」としている。
年 表
不明
尼子氏の守城の一つであったと云われる。
不明
伯耆国から尼子氏の勢力が駆逐された頃、富田街道を抑える要衝として毛利氏によって運用とある。(日野町誌)
天正年間
羽柴秀吉による中国攻め(中国征伐)の道中に所在したことから攻撃を受け落城したとされる。
落城の時期を天正年間とするが1582年(天正10年)頃と考えられる。
地 図
写 真
訪城日 2014/05/24
北東出丸からの遠望
堀八幡宮の正面鳥居
榎市堀八幡宮
正面鳥居を進むと北二ノ郭に鳥居
北一ノ郭の西側に竪堀と腰郭
北一ノ郭から主郭へ
北二ノ郭から階段を進むと北一ノ郭
主郭(南側から)
主郭南側の土塁と石積
主郭西側の腰郭には廃屋
主郭西端と腰郭の境界
主郭西端と腰郭の境界には土塁
主郭西端から北西の竪堀
主郭南西の堀切
南西の郭跡
南西の二段の郭跡(郭跡に土塁?)
改変を受けた南西部付近の祠(荒神さん)
城跡周辺(南西部)
北東の出丸
南側にも参道
南側参道にある鳥居
北西から流れる別所川