伯耆国 河村郡

かたしばじょう

片柴城

鳥取県東伯郡三朝町片柴 片柴城

所在地

鳥取県東伯郡三朝町片柴

城 名

かたしばじょう

片柴城

所在した片柴村に因む呼称

築城主

不詳(原田氏か)

築城年

不詳

廃城年

不詳

形 態

山城、丘城

遺 構

郭跡、土塁、堀切、土橋、切岸

 

尾根頂部に展開するため長く幅の狭い郭が多い

 

中心の主郭に対し三方の尾根をそれぞれ断ち切る

現 状

山林、東屋

備 考

史跡指定なし

縄張図

城 主

北条

原田

鎌倉時代頃の伝承で当地に役場を置いたとする(三朝町誌)

城 主

豊臣

宮部

鳥取藩主、宮部継潤の代官とする(三佛寺文書 友田吉政寄進状)

城 主

徳川

山田直時

慶長14年、中村家の改易により幕府から派遣され天領地となった周辺の統治を行う

安田茂右衛門

大坂の陣以降、山田直時より河村郡内の山中全ての管理を命じられる

安田庄三郎

世襲により河村郡内の山中全ての管理を命じられた一族

参考資料(史料及び文献、郷土史など)

伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)

伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)

伯耆民談記 巻上(大正3年1月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)

因伯文庫 伯耆民談記(昭和35年3月 萩原直正校註)

因伯文庫 因幡民談記 巻二(大正3年6月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

陰徳太平記[香川正矩 編](明治44年5月 犬山仙之助)

陰徳太平記 合本四[香川正矩 編](明治44年5月 吉田八徳)

三朝町誌(1965年)

続三朝町誌(1968年)

新修三朝町誌(2009年)

年 表

鎌倉時代

原田氏の一族が当地に役所を置き周辺を治めたとする。

1577年

天正5年

旧暦8月

南条元続より三徳山三佛寺に対して片柴から奥の除地が寄進される。(南条元続安堵状)

1579年

天正7年

8月21日(旧暦7月29日)

南条方の伯耆国羽衣石城が落城し、南条元続が片柴を越えて三徳山を目指したとする。(伯耆民談記)

1580年

天正8年

旧暦3月

三佛寺文殊堂の須弥檀扉金具に残る線刻から南条元信或いは生前の南条信正から寄進を受けたと考えられる。

1581年

天正9年

11月21日(旧暦10月25日)

因幡鳥取城が落城し、毛利方の吉川経家らが自刃する。

吉川経家の弔い合戦とする馬ノ山の対陣では羽衣石城が再び南条領となっており、毛利方の吉川元長の攻撃を受けている。

1582年

天正10年

(旧暦9月)

南条元続の立て籠もる羽衣石城が毛利方の吉川元春の部将、山田重直山田信直らの攻撃を受け落城する。

1584年

天正12年

芸京和睦の成立により久米郡は南条氏の領有となる。

河村郡片柴村周辺は宮部継潤の所領となり、代官として友田吉政が置かれる。

1599年

慶長4年

12月29日(旧暦11月12日)付

友田吉政から三徳山三佛寺へ坂本村100石が寄進、安堵されている。

1609年

慶長14年

中村家の改易後は天領となり、幕府より山田直時が代官として派遣される。

1615年

慶長20年

大坂の陣以降、河村郡内の山中全ての管理が安田茂右衛門へと命じられ、以降は一族が管理する。

概 略

片柴集落の北側丘陵に所在を伝える。

山中には石垣らしき石材も見られ、往古より役場の存在を伝えることから政庁に由来する遺物と推測される一方、モノレール(モノラック)が敷設されていることから果樹園に係る造作物の残骸とも考えられる。

片柴の地は因幡から鹿野往来が集落内を通り久米郡(倉吉)方面の伯耆往来、八橋郡(八橋、赤崎)方面の八橋往来へと繋がり、北の波関峠からは東郷池方面へと接続する交通の要衝と伝えている。

伝承には鎌倉時代頃に原田氏の一族、慶長年間には宮部継潤の家臣、友田吉政が代官として当地に役所を置き治めたとしている。 (三朝町誌)

 

古城跡に関する直接的な伝承を見つけることはできないが、何れの代官も当地に役所を置いたとしていることから当城が三朝周辺の政庁であったと考えが向かう。

但し当城砦を単独で捉えた場合、尾根上に展開する郭群と堀切の配置から政庁とする象徴的な建造物とは考えにくく、籠城戦に供するとしてはやや規模が心許ないため、元来の設計思想は敵対勢力の足止めに主眼を置いた城砦と推測される。

地形や周辺諸城との連携を意識した運用を推察するなら当城と南側の山塊に所在する伯耆国余戸砦(伯耆国天主ヶ平砦を因幡国側へ対する鶴翼の外構とし、三朝川や小鹿川を利用して谷部の移動を制限するなど敵方の進軍を阻害する意図も考えられる。

 

伯耆民談記之巻第七 一、美徳山

河村郡山領百石因州唯式院支配山の伝に曰

(略)上古は三千坊ありといえり。中古、源頼朝公、当山を造営せられ此時よりして社閣三十八宇、坊舎百余宇、山領一万余町の田畑三千石に定め給う。其後は山領次第に減じ坊舎とても其如く山の衰うる事年久しとかや。然るに羽衣石南条伯耆守元続、是を再興して社閣十一宇となし坊院十二舎を置き山領五百石と成る。慶長年中又修理あって山領国印一百石と成って坊舎又減し三院となる。夫より後は国守の造営なり。

 

鎌倉時代

源頼朝により三徳山三佛寺の造営が行われ、寺領は一万余町3,000石であったと伝えている。

 

南条元続安堵状

以寺領之内片柴より奥除地分両谷共為御供領相渡候。永代収納可有之。弥以残寺々無破滅様、才覚之者也。

天正五年 丑八月 日 三徳山中

南条元続(書判)

 

1577年(天正5年8月)

戦禍により荒廃していた三徳山三佛寺に対し南条元続による再興が行われ、片柴より奥(坂本村か)の除地が寄進されている。

伯耆民談記ではこの頃の三徳山三佛寺の寺領を500石としている。

 

天正年間

三佛寺地蔵堂の内部(重要文化財)に「当山退転六年寺中野原となり申候」と墨書きが遺されていることから、南条元続によって再興が成った6年後(1583年頃か)には三徳山三佛寺は再び戦禍に遭い荒廃していたことが伺える。

但し「六年」を「無念」の当て字とする場合、戦禍による荒廃に憤る一節とも考えられる。

 

伯耆民談記之巻第十 河村郡古城之部 一、羽衣石城

(略)明れば(天正七年七月)廿九日の未明より大手の先鋒、毛利元経、士卒をすすめ無二無三に攻かかる。城中にも爰を先途と防ぎ戦う。此間晝夜の戦に気力つかれたる故、長和田表を破られ本谷口を堅めけるに蛇山長山の寄手一同に本城へ乗込み火を放つ。城方前後の敵に揉立てられ防ぐべき様もなく忽ちにして落城に及びける。勘兵衛、今は是迄なりとて自害せんとしけるを家老、廣瀬出羽守、大に諌めて片柴越に三徳山を経て因州へ落ち行きける。其一族、塩谷、十六島、小森、豊島、山田等を始めとして各谷越に三徳へ集り妻子をば民家へ忍ばせ主人の跡を追い因州へ趣きけり。廣瀬は暫らく踏み止まりて防戦し残る者どもを引具し、城に火をかけ是も三徳へ走りける。此時、当家に尼子より送られし残雪という盆山の石、信長より給わりたる天下月毛と称する名馬、杉原が手に入り元春に献ず。此役を陰徳太平記には天正十年九月廿三日と述べたり。又、小鴨左衛門尉元清も此時居城岩倉にて敗るあり。然れども岩倉落去は天正十年の夏也と村老の説有り此説可なるに似たり。久米郡大宮大明神の宝前に小鴨家人等の誓盟の一札有りて其年号天正十年五月五日と記したれば明白也。

 

陰徳太平記 巻之六十八 南条没落之事

(略)同九月廿三日(略)元続も巳に城の大門に火付、敵又大手より攻入ける間、今は叶わじとて郎党四五人召具して命の活たるを希有に思い切岸より逃出て播州さして上がりけり。

山田が者共北る敵を頻りに追懸、王賀、津村等を初として八十九人討取けり。信長より元続に賜りたる天下月毛、鬼鹿毛など云う名馬を重直が手へ奪取。輝元、元長へ進上し、又尼子より賜りたる残雪と云う石をも拾取て元春へ献進す。

 

1579年8月21日(天正7年7月29日)

毛利方の攻撃を受け南条方の伯耆国羽衣石城が落城する。

城主であった南条元続は自害を覚悟するが、家老の広瀬出羽守に説得され片柴を越え三徳山へ落延びたとする。(伯耆民談記)

陰徳太平記では天正十年の出来事としている。

そのため前年に死去した杉原盛重ではなく山田重直が登場し、南条元続から奪った名馬に鬼鹿毛が追記されるなど伯耆民談記とは一部に相違点が見られる。

 

1580年(天正8年3月)

三佛寺文殊堂(重要文化財)の須弥檀扉金具に「金物之檀那南条備前守天正八年三月吉祥日」と線刻が遺る。

南条元信或いは生前の南条信正から寄進を受けていたと考えられ、南条氏三徳山三佛寺の強い繋がりが伺える。

 

三佛寺文書 友田吉政寄進状

以上

以坂本之内高百石之分相渡候。可有寺納候。弥御寺相続候様、御才覚尤候。恐々謹言。

慶長四年 十一月十二日 三徳山惣中

友田勝右衛門尉吉政(花押)

 

慶長年間

再び荒廃していた三徳山三佛寺の修繕が行われるが坊舎は3院、寺領も100石へ減少している。(伯耆民談記)

 

1599年12月29日(慶長4年11月12日付)

因幡国鳥取城の城主、宮部継潤の家臣、友田吉政から三徳山三佛寺へ坂本村100石が寄進、安堵されている。

この日までには三徳山三佛寺の修繕が完了したと考えられ、三佛寺地蔵堂の墨書き(当山退転六年寺中野原となり申候)もこの頃の修繕時に認められたと推測される。

 

伯耆民談記 山田五郎兵衛倉吉在住 并に安田綱右衛門家伝の事

慶長十四年、中村家退転の時、当所は御領となりて山田五郎兵衛御代官として居住あり。中村氏の浪人共、部落へ蟄居せしが大坂陣の時籠城せしもの幾千なり。大坂落城の後、又当国へ立帰りし故、山田氏大命を蒙り厳敷詮議ありしと云う。河村郡穴鴨村に安田茂右衛門という居民あり。此時の下知によって河村郡山中の事、惣て彼が家にて支配せしめらる。此節は安田庄三郎というて幼少なれば其母家事を行う。是によって老母に下知あり。其書今に所持せり。此家の先祖を安田綱見衛門と云いて名和伯耆守長年が妹聟也。其前々より代々当所に居住し今の茂右衛門迄三十七代連綿として相続す。先祖綱右衛門は元弘の乱に後醍醐帝、当国船上山へ御登山の時、長年に従い忠勤を尽くす。其後此山中に隠れ住み家富みて郷士となれり。十代も以前迄は国中にても人に知られし身代なりしが数度の兵火に家系重宝尽く焼失し家も衰微し、いつしか郷士の格も失せて只其号を伝うるのみなり。(略)

 

1609年(慶長14年)

中村一忠の死去に伴い中村家が改易となる。

東伯耆では中村家の財産の不正な横領が摘発され、中村伊豆守河毛備後守依藤長安の所領と財産が幕府により没収となった。

中村伊豆守河毛備後守依藤長安の所領であった久米郡及び河村郡のそれぞれ一部は天領に、没収された財産は闕所蔵へと移されることとなり、幕府からは代官として山田直時が派遣され天領と闕所蔵の管理を任されたとしている。

 

1614年~1615年(慶長19年~慶長20年)

中村家の改易後も周辺には中村家の浪人が多く蟄居していたとある。

大坂の陣では多くの浪人が摂津国大坂城へと向かったが、大坂城が落城し豊臣家が滅びると再び伯耆国へと戻る者があったため山田直時は厳しく取り締まりを行ったとしている。

これまでは山田直時が天領全ての管理を行っていたが、この頃より河村郡内の山間部全ての管理が穴鴨村の安田茂右衛門一族へと命じられている。

写 真

2023年12月3日

南からの遠望

遠望

南虎口の東屋

南虎口東屋

南郭の虎口

南郭虎口

南郭の虎口

南郭虎口

南連郭

南連郭

南連郭

南連郭

南連郭

南連郭

南連郭の石材跡

南連郭石材跡

南大郭と祠

南大郭と祠

南大郭と祠

南大郭と祠

南大郭北堀切

南大郭北堀切

南大郭北堀切

南大郭北堀切

南大郭と主郭の接続郭

主郭接続郭

接続郭北堀切

接続郭北堀切

接続郭北堀切

接続郭北堀切

接続郭北堀切

接続郭北堀切

接続郭北堀切

接続郭北堀切

接続郭北堀切

接続郭北堀切

接続郭北堀切

接続郭北堀切

主郭

主郭

主郭

主郭

主郭南堀切

主郭南堀切

主郭南堀切

主郭南堀切

主郭

主郭

主郭

主郭

主郭石垣

主郭石垣

主郭石垣

主郭石垣

主郭南堀切

主郭南堀切

主郭南堀切

主郭南堀切

主郭と方形窪地の高低差

主郭西側

モノレール

モノレール

モノレール

モノレール

南西連郭

南西連郭

南西連郭

南西連郭

南西連郭

南西連郭

井戸郭

井戸郭

井戸郭

井戸郭

井戸郭

井戸郭

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