伯耆国 河村郡
いしわきじょう
石脇城
所在地
鳥取県東伯郡湯梨浜町石脇(字宮ノ越)
城 名
石脇城(いしわきじょう)
別 名
久塚城(くづかじょう)
久津賀城(くづかじょう)
九塚城(くづかじょう)
築城主
不詳
築城年
不詳
廃城年
1600年(慶長5年)
形 態
丘城、海城
遺 構
郭跡(腰郭・帯郭)、土塁、空堀、竪堀(畝状竪堀群)、切岸
現 状
畑地、果樹畑、竹林、住宅
備 考
史跡指定なし
縄張図
不詳
城 主
不詳
委細不詳。
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
因伯古城跡図志(1818年(文政元年))
尼子勝久感状(元亀2年5月9日 米井家文書)
泊村誌(平成元年5月 泊村誌編さん委員会)
羽合町史 前編(昭和42年10月 羽合町史編さん委員会)
角川日本地名大辞典31鳥取県(昭和57年12月 角川日本地名大辞典編纂委員会)
一般国道9号線(青谷・羽合道路)改築工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書(1998年 財団法人 鳥取県教育文化財団)
年 表
1571年
元亀2年
5月9日、尼子勝久が率いる軍勢(尼子再興軍)が河口城或いは当城を攻撃する。
守備する吉川元春の軍勢と久塚表で合戦となり、尼子方に組した日野衆、原又太郎の奮戦に対し尼子勝久が感状を発給している。(尼子勝久感状〔米井家文書〕 元亀2年5月9日 原又太郎宛)
1584年~1585年
天正12年~天正13年
芸京和睦により毛利氏と南条氏の領地が確定し、当地は南条領(4万石)とされる。
1600年
慶長5年
関ヶ原の戦いで西軍に与した南条氏が改易され、伯耆国羽衣石城と共に廃城と伝える。
廃城後は社地となり石脇村の氏神を祀る荘厳な森であったとしている。(泊村誌)
1915年
大正4年
社地の廃止により畑地への転用が行われ往時の面影を失うとある。(泊村誌)
概 略
石脇集落の南方、高さ約13m、周囲約500m程の台地先端部に所在する。
因伯国境が間近に迫るため、対因幡方面へ備えた前衛施設とする伯耆国河口城の支城で東の要衝ともされる。
現在は台地西側を筒地方面に向かう県道259号が通ることから道路の敷設工事による改変も考えられるが、石脇神社跡の残存部分から北側~東側に対する城塞であることが伺える。
主郭は字「宮ノ越」が推定され現在は畑地となっている。
字「宮ノ越」を中心に北側には字「西屋敷」と字「東屋敷」、南側には字「堀」とあり、その更に南側が字「久塚」となる。
西側の石脇神社跡周辺が字「古茂屋」とあり、緩やかな連郭が西に向かって伸びていたようである。
字「久塚」の更に南には字「勝負谷」が見え、元亀年間に毛利方と尼子残党が合戦を行った「久塚表」の推定地のひとつとされる。
台地の東側は切岸に土塁を設けることで主郭を守り、北側は切岸の上部に畝状竪堀と見られる竪堀と土塁が10条以上並び配されている。
北面を西側の果樹畑まで竪堀群が続いていたと仮定するなら20~30条の竪堀を有した縄張が考えられ、切岸面に対し竪堀を敷き詰めた構造を持つ城砦は伯耆国内でも極めて稀、或いは唯一の城砦となる可能性もある。
但し、大正時代以降に畑地への転用に拠る造作も十分に推測できるため、畝状竪堀とするには発掘調査など更なる調査が必要と考えられる。
築城時期は不明とされるが元亀年間の久塚表の戦いでは吉川方の防衛拠点として、天正年間には毛利氏が有し対因幡侵攻の攻撃拠点とする運用がなされたようで攻守の切替が可能な汎用性に優れた城砦とも推測される。
因伯古城跡図志 石脇村古城跡
石脇村古城跡 高七間位ニシテ臺也 周リ六町位 近辺ハ竹木草有 水近所ニ有 海辺八三町位 當時社地トナリ 大森也
因伯古城跡図志では水手が近くにあったことが記されており、籠城戦が行える城砦であったことを裏付けている。
廃城後は社地に転用とされ、図志の描かれた文政年間頃も社地としている。
1571年(元亀2年)5月9日、尼子再興の軍を率いた尼子勝久の軍勢により攻撃を受けている。(久塚表の合戦)
当城を守備していた吉川方の軍勢と激しい戦闘となり、尼子方の原又太郎の奮戦に対し尼子勝久が感状を送っている。(尼子勝久感状〔原又太郎宛 米井家文書〕)
久塚表の合戦では多数の死傷者が出たと伝え、付近一帯にある五輪塔群には泊海岸で見られる石が使われていることから戦死者を村人が弔ったものではないかとされている。(泊村誌)
天正年間には尼子残党を駆逐した毛利方が引き続き領有し、西進する織田方に対する軍事拠点としたことが推測される。
1584年~1585年(天正12年~天正13年)、芸京和睦により毛利氏と南条氏の領地が確定すると当地は南条領(4万石)と決定されている。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍に与した南条氏が改易された頃、伯耆国羽衣石城や河口城と併せて廃城と伝える。
廃城から暫くの後、城跡は社地となり、石脇村の氏神を祀る古木の生茂る荘厳な森となったと伝わっている。
1915年(大正4年)に社地が廃止され、以降は畑地として利用されている。
県道沿いに残る石脇神社跡の鳥居には石工川六の銘が彫られており、往時の形を今も残している。
写 真
2020年1月11日