伯耆古城図録

とっとりはんだいば やばせやせんだいば

鳥取藩台場 八橋野戦台場

鳥取県東伯郡琴浦町八橋

別 名

八橋御台場(やばせのおだいば)

四挺居台場(していきょだいば / しちょうきだいば)

遺 構

石塁、土塁

武 装

六尾反射炉製 砲台3門(鉄造15寸径砲、鉄造13寸径砲×2)、三百目カノン砲 ※非現存

現 状

住宅地、海岸

城 主

不明(一清隊)

築城年

1863年11月(文久3年)

廃城年

不明

築城主

不明

形 態

野戦台場

備 考

史跡指定なし

参考文献

八橋古地図(天保15年)

鳥取藩史 第三巻 軍政志 学制志 儀式志(1970年10月 鳥取県立鳥取図書館)

改訂翻刻版 郷土史〔藤井本〕(昭和11年 八橋国民学校)

幕末の海防と鳥取藩台場(平成30年11月 鳥取県埋蔵文化財センター 松井潔)

縄張図

不明

 

概 略

東伯海岸沿いを通る汗入郡と久米郡を結ぶ伯耆街道と八橋郡から久米郡へと続く八橋往来の分岐点から北東の海岸部、茅町川河口の左岸に位置する字「新屋敷」周辺に旧台場が所在したと伝わる。

台場が建造される以前、1841年(天保15年)の古地図では字「新屋敷」に海岸を含めた地形が円弧状(扇形)であり、1936年(昭和11年)に記された郷土史(藤井本)にも旧お台場として扇形の地形が図示されている。

旧字「新屋敷」周辺

 

鳥取藩史 第三巻 軍政志 三 因伯海岸の砲台の条

文久三年十月十一日 扣帳

(略)海岸砲台の外、野戦砲台も築造せられしと見江、同年九月七日、浜坂傍示に野戦御台場二ヶ所築城につき、武器奉行、町奉行、郡代に夫々申渡有り。安場敬之丞を以て右築造の御用懸かりとなさる。八橋には已に同種砲台築造せられしと見江、同月十四日、同所野戦御台場当居分置として

一、十五寸忽炮 壱挺 一、十三寸忍炮 壱挺 一、三百目迦農 壱挺 一、十三寸旧炮 壱挺

一、十五寸玉五拾 一、十三寸玉百 一、三百目玉百

を武器奉行の稟議により同所に廻送の命有りし事、扣帳に見ゆ。

以上、各砲台の内、比較的完全に現存するもの赤崎のみにて他は殆ど形跡を留めざるを以て其設備知り難し。

 

鳥取藩史では洋上の敵船舶との砲撃戦ではなく、敵部隊の上陸を阻止するために供する野戦台場であったと認識している。

敵船舶との砲撃戦を想定した場合、着弾時の炸裂による二次被害を抑えるため、土壁には砂や土を用いた造作が基本となるが、当台場残存部と推測される茅町川河口の土塁壁面は石積で強度を優先する設計がなされていることから白兵戦に特化した台場であったことが裏付けできそうである。

石積みの土壁

別名に四挺居台場とも呼称されるが、武装として台場に四挺の砲台が設置されたことに因んだ名称が推定される。

配備された重火器の目録から四挺の内の三挺は六尾反射炉製の鉄造砲、一挺は不詳だが海外製のカノン砲と考えられ、それぞれの弾薬も支給されている。

 

鳥取藩史 第三巻 軍政志 三 因伯海岸の砲台の条 別紙

(略 因幡の他野戦台場など)西園野戦御台場 八橋御台場(略 伯耆の他台場など)

但し、右之内、御台場未だ出来不相成分も有之候。復共追々御築造の御含も有之候事。

 

伯耆国内では2つの野戦台場の築造計画があったとされ、当台場の完成は記述に見えるが西園野戦御台場については築城の着手及び完成に至ったかの詳細は不明。

 

鳥取藩史 第三巻 軍政志 三 因伯海岸の砲台の条

神職壮健の者をば助砲隊と成し各最寄りの台場に配属せしめ、臨時の節には同所に駆附け砲隊を援けて台場を守備せしむることとし、平素神事の透間を以て武芸を習得せしむ。尤も、右助砲隊の名は僅かに一ヶ年継続するに過ぎず、翌元治元年十月十一日、一統御免と成れり。文久三年十一月廿四日 扣帳

 

台場の防衛を担った主要人物や組織の詳細は不明だが、八橋郡周辺の神職で構成された助砲隊が防衛の一役を担ったとしている。

この部隊を「一清隊」と伝え台場を守ったとする説と、「一清隊」を淀江の神職部隊とし、松波農兵隊と共に汗入郡の今津に所在した伯耆国鳥取藩台場 淀江台場を守ったとする両説が存在するようである。

 

1864年(元治元年)11月11日、助砲隊の役務が解かれた後は在地の農兵隊が施設の防備を引き継いだと推測される。

 

1870年(明治3年)2月、伯州台場農兵隊は廃止となり、この頃には台場も役目を終えたと考えられる。

 

年 表

1863年

文久3年

伯耆国内では2基の野戦台場が計画され、東伯海岸には同年11月に完成とある。(鳥取藩史)

八橋郡内の神職で構成される助砲隊が組織され、台場防衛の一役を担ったとある。(鳥取藩史)

1864年

元治元年

11月11日、助砲隊は解散。(鳥取藩史)

引き続き在地の農兵隊が防衛を担ったと推測される。

1870年

明治3年

伯州台場農兵隊は廃止となり、同じ頃に台場も役目を終えたと考えられる。

地 図

 

写 真

訪城日 2020/10/18

日本海側の海岸線からの遠望

遠望と茅町川河口部

日本海からの遠望

日本海からの遠望

土壁と河原石

茅町川河口部

茅町川とこいはし(平成11年架橋)

旧字「新屋敷」の並び

旧字「新屋敷」の集落

集落内の高低差

集落内の様子

集落内の高低差

集落内の高低差

集落内の高低差

集落内家屋の石積み

台場の案内板

北側の土壁跡(推定残存部)

北側の土壁跡

北側の土壁跡

北側の土壁跡の高低差

北側の土壁跡の高低差

集落から日本海の眺め

台場から東伯海岸の眺め

津田街道(伯耆街道)

伯耆街道と八橋往来の分岐点

海見山大経寺

街道と海見山大経寺の高低差

海見山大経寺の正面

津田街道の鍵の手

鍵の手から海見山大経寺

鍵の手と制札場跡

制札場跡

制札場跡の案内板

津田街道と制札場跡の案内板

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