武将列伝帖

つきさか げんべえのじょう

月坂源兵衛尉

【氏】不明【姓】不明【名】月坂【通称】源兵衛尉【諱】不明

別 名

出 身

出雲国能義郡月坂

官 途

兵衛尉

所 属

毛利氏

生 年

不明

没 年

不明

 

- 列 伝 -

出雲国能義郡月坂の出身とする毛利家の家臣。

一説には尼子氏に仕えた頃は「助太郎」を名乗っていたとされ、同一人物とする説も見える。

 

1578年(天正6年)、播磨国上月城にて尼子再興軍が壊滅した後、毛利輝元へと仕官している。

郷土史では仕官の経緯に創作のような部分も見えるが当初、毛利輝元は尼子再興軍に与していた立原久綱を配下に迎えようとしている。

虜囚となっていた立原久綱は病を理由に処分が先延ばしになっていたが、監視の隙を突いて脱走に成功している。

毛利輝元は代わりに月坂助太郎を召し抱え、仕官した後は「源兵衛尉」を名乗ったとしている。

 

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの後は浪人となって伯耆国尾高で余生を過ごしたとある。

一説には関ヶ原の敗戦により所領を大きく減らした毛利家に従い周防・長門へと移ることは叶わず、御暇願いを出し許されたことで尾高へと移り住んだとしている。

その際、一通の書状を賜ったとしているが内容は不明。

上杉家の旧臣に宛てて発給された内容と同様に「武運拙く敗れたが再起の暁には召し出すであろう」とする内容であったと推測している。(尾高の里)

 

暇を許された後は出身地である月坂へは帰らず、尾高の地が気に入ったため移住したともしている。

参考の郷土史「尾高の里」(1~8まであり)では著者の遠縁としているが巻が進むごとに説が変化しているため信憑性は疑わしく、資料の出典元も明示されていない。

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