所 属

尼子

毛利

よみがな

人物名

つきさか すけたろう

月坂助太郎

尼子方に与した頃の名乗り

 

別 名

つきさか げんべいのじょう

月坂源兵衛尉

毛利輝元に仕官した際に改名と伝える

官 途

兵衛尉

出身地

出雲国能義郡月坂

生 年

不詳

没 年

不詳

不詳

不詳

不詳

列 伝

出雲国能義郡月坂の出身とする。

尼子方に与し、毛利方の侵攻に対しては出雲国月山富田城で籠城し抵抗する。

一説に尼子再興軍の壊滅後は毛利輝元に仕えたと伝え、毛利家への仕官を機に通称を「源兵衛尉」に改めたとしていることから月坂源兵衛尉を同一人物とも伝えている。

 

1558年~1562年(永禄元年~永禄5年)頃

尼子と毛利が石見銀山(石見国)の争奪戦を繰り広げる頃から尼子方の本拠地を防衛するため月山富田城に在城と伝える。

郷土史では月山富田城が落城するまで7年余りに亘って籠城を続けたとしている。

 

1566年(永禄9年)

尼子方は山陰での主要な拠点を失い、遂に本拠地であった月山富田城が毛利方の包囲を受け落城する。

尼子義久らが芸州へと護送される際、69名の旧臣と共に同行を求め杵築まで駆け付けている。

尼子義久は同行を認めなかったが、別に宴席を設けた上で一同を追い返している。(陰徳太平記 巻之四十 義久兄弟芸州下向之事、雲陽軍実記 第四巻 兄弟尼子和睦芸州下向 并義士評定離散之事)

 

1577年(天正5年12月)

羽柴秀吉の軍へと編入された尼子再興軍が播磨国上月城へと入っており、この頃に上月城に在城と推定される。

 

1578年(天正6年7月)

尼子再興軍に与して上月城を守った武将のひとりとして登場するが上月城は落城し、再興軍は毛利方へと降伏する。(陰徳太平記 巻之四十三 尼子勝久雲州入 付松永霜臺事、雲陽軍実記 第五巻 木下藤吉郎秀吉播州上月城加勢 并勝久氏久生害之事)

 

尼子再興軍の壊滅後は毛利輝元へと仕官し、通称を月坂源兵衛尉に改めたと伝えている。

毛利輝元は元来、尼子再興軍に与していた立原久綱を配下に迎えたいと考えていたが、監視の隙を突かれ脱走を許したため代わりに登用されたとしている。

何らかの思惑から立原久綱の通称「源太兵衛尉」に因み「源兵衛尉」へ改名を命じられたと考えられる。

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