伯耆国 久米郡
きたのじょう
北ノ城
所在地
鳥取県倉吉市西倉吉町(字城ノ内、字中ノ城)
城 名
北ノ城(きたのじょう)
別 名
北之城(きたのしろ)…本城である岩倉城の北に所在することに因む呼称。(伯耆民談記)
北野城(きたのじょう)…所在する地名に因む呼称。
岡田村古城跡(おかだむらこじょうあと)…因伯古城跡図示に記載される。
築城主
不詳
築城年
不詳
廃城年
不詳
形 態
丘城
遺 構
郭跡、切岸、空堀、堀切(一社堀と伝えるが消滅)
現 状
住宅地、倉吉市立西中学校、北野神社
備 考
史跡指定なし
縄張図
不詳 ※因伯古城跡図志 下に絵図の記載あり。
城 主
南条
南条元忠
真偽不明とした上で伝承にて居城を伝える。(伯耆民談記)
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
因伯古城跡図志 下(1818年 文政元年)
伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)
伯耆民談記(昭和35年3月 印伯文庫)
角川日本地名大辞典31鳥取県(昭和57年12月 「角川日本地名大辞典」編纂委員会)
新修 倉吉市史 第二巻 中・近世編(平成7年3月 倉吉市史編集委員会)
年 表
天正年間~慶長年間
南条元忠が居城とし、当地に館を構え居住したとする。(伯耆民談記)
概 略
天神野台地の北端に所在し、丘陵の先端部を古城跡と伝える。
東は小鴨川、西は国府川が川堀となり、谷部を形成すると同時に浸食によって両岸が絶壁となる天然の要害であったと推測される。
丘陵上からは八橋往来を見下ろすことが可能で往来の監視を担った施設とも考えられる。
城跡に関する遺構は宅地化によりほぼ全てが消滅とされ、残った地形も城跡に関係するかは明確でないとしている。(新修 倉吉市史 第二巻 中・近世編)
因伯古城跡図志 下 岡田村古城跡
岡田村古城跡、田地中にて上り二丈位の台なり。
古城跡(右図) 長三十五間、横二十七間、廻り不残堀。
古城跡(左図) 長五十七間、横四十間。
因伯古城跡図志 下では既に田土へと改変が行われ往時の姿は見えないとしているが大小二つの郭を有したと推測している。
大郭は方形の単郭で長五十七間(約102メートル)、横四十間(約72メートル)。
小郭は方形の単郭で長三十五間(約63メートル)、横二十七間(約48メートル)。
小郭には虎口が備えられており、周囲を堀が巡っていたとすることから小郭が主郭、大郭が二ノ郭であったと推測される。
伯耆民談記 北の城の事
灘の郷岡田村にあり。当城も岩倉の支城なり。城主分明ならず。口碑に南條中務太輔元忠居住せしといへり。中務此城へ居城の事不審なり。地城にして惣廻りに大なるから堀有り。民間之れを一社堀といふ。北の城とは本城岩倉より北に当る故かく名くと云へり。
伯耆民談記では伯耆国岩倉城の支城の一つとしているが、伯耆国市場城から天神野台地が続き、丘陵北端に位置することから市場城の出城と見ることができる。
城砦の周囲は大きな空堀が巡っていたとするが現在は倉吉市立西中学校の建設により明瞭な位置、痕跡は不明。
西側の絶壁部に残る地形から中学校西側の登校口、或いはグラウンドの真中付近、北野との境界の川堀に尾根を断ち切る形で大堀切が配されていたことが考えられる。
航空写真ではグラウンド中央に堀跡の痕跡が鮮明に映り、これが一社堀の一部と推測される。
城主として南条元忠を挙げているが真偽は怪しいとしている。
城砦に関する遺構は乏しいが関連しそうな字名として西倉吉町に「城ノ内」「中ノ城」「屋敷」「屋敷添」、北野には「屋敷」の地名が残る。(角川日本地名大辞典)
当城から南に約1Kmの位置に北野神社が鎮座する。
神社の由緒では室町時代には当地に社が存在していたとし、岩倉城或いは市場城の支城とされるが両城とは距離もあることから連絡を取るための施設が神社周辺に所在したと考えられる。
写 真
2019年11月9日