伯耆古城図録

いちばじょう

市場城

鳥取県倉吉市小鴨

別 名

小鴨城(おがもじょう)

遺 構

郭跡、土塁、堀切、登り土塁、空堀、水堀、水濠、切岸、平入虎口(東)、枡形虎口(南西)

現 状

畑地、竹林

城 主

(小鴨方)岡田某

築城年

不明

廃城年

1582年(天正10年)5月25日

築城主

不明

形 態

丘城

備 考

史跡指定なし

参考文献

伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)

伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)

伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)

伯耆民談記(昭和35年3月 印伯文庫)

因伯古城跡図志(文政元年 鳥取藩)

新修 倉吉市史 第二巻 中・近世編(平成7年3月 倉吉市史編集委員会)

伯州刺史 南條公(昭和56年5月第2版 東郷町神波勝衞)

縄張図

市場城略測図(鳥取県教育委員会提供)

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

 

概 略

伯耆国岩倉城から北西4Kmほど先の丘陵裾部に所在したと伝え、小鴨氏の家臣であった岡田某の居城と伝わる。

 

「鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)」の縄張図では北部を不明瞭とし、主郭とする二段の方形区画までを記載しているが、主郭北側の空堀から更に北側、字林ヶ平以北にも土塁、空堀、郭跡(田畑、果樹畑への転用か改変)と推測される地形が見えることから、丘陵全体を防衛ラインと見立てた岩倉城の支城として、伯耆国今倉城や伯耆国三江城方面からの攻撃に備えた城砦とも推察される。

 

縄張図に見える南西側の土塁と枡形虎口の部分は天神野方面へ抜けるための道路建設により一部が消滅している。

郭跡もある程度の広さを持つ平坦面の殆ど全てが田畑(果樹畑や茶畑)とされ、斜面も芋畑に転用されていたと聞くが近年は耕作放棄地も増え、多くは竹薮となっている。

南西側の枡形は虎口に対する全ての面が切岸状で、対応する上部の郭にはそれぞれ土塁が上積みされていることから、主郭の南側~南東側にも虎口から繋がる防御施設(土塁など)が存在したと推測されるが現在は遺構を確認することができない。

 

主郭東郭の北側と主郭西郭の南側から伸びる土塁は丘陵斜面に沿って東から西に向かって登り土塁となっており、南西側~西側にかけた土塁と空堀の底の高低差は6~8mほどの比高となっている。

往時は更に高低差があったと考えられ、西側の空堀の南側は底が広い箱堀状だが北側に進むにつれて狭くなり、薬研堀状となっている。

現在は乾いているが数十年前は泥濘の見える場所もあり、箱堀状の箇所は水堀であった可能性もあるが、茶畑などの用水路が通っていたことから単に水が溜まり易い地形になっているとも考えられる。

 

通説では岩倉城の支城とされているが、城砦の規模や構造、城下の経済活動の状況から周辺地域を統治する政庁としては岩倉城よりも当城の方が適当であった可能性が推測される。

城砦の立地場所も台地の頂部ではなく敢えて中腹に位置していること、発掘調査からも城砦ではなく屋敷で使用されたと考えられる焼き物の遺物が多く出土していることからも、居館として機能した期間が長いことも伺える。

当城が岩倉城と同様に「小鴨城」とも呼称される由縁も地名から取った説と、当城の本来の性質を伝えた呼称である可能性もある。

 

伯耆民談記 巻之第十三 久米郡古城之事 市場城之事

当城は小鴨庄市場村の上にあり。此城は岩倉領にして小鴨家の臣、岡田某が居城なり。天正十年五月、岩倉の城、吉川元長の為に滅亡し、其時当城も同く破滅す。 岡田は死を遁れ流落の身となり所々を徘徊しけるが後には盗となりて遂に因州に於いて死罪に行はれたりと云ふ。又当村を市場と称する事は昔時岩倉城繁昌の時、毎歳(春秋の)大市と云ふ事有りて自領他領の民牛馬を牽て此処に群集し市を立て売買せり。其頃は近国の諸武士等も多く来て乗馬を求めしと也。是によりて此処を市場村と称すと。又此並村に大宮大明神と云ふ神社あり。岩倉の城鎮守の神にてむかしは世に聞こへたる大社なり。小鴨大明神とも号す彼の大市の事、当社祭日の前七日より是を始め、当日を限りて終る。されば民間今尚小鴨市と称するは其時よりの事と云へり。

 

伯耆民談記では岩倉城と運命を共にした城として記述が見える。

但し、直接戦火による落城とまでは断定できず、城主であった岡田某も逃亡していることから岩倉城の落城に及び放棄されたとも考えられる。

 

因伯古城跡図志 市場村古城跡

高六間位、天神野之裾通松林有、当時山上社地也。

 

文政元年の因伯古城跡図志には城跡について上記の記述が見える。

地元の話では道路(313号線)の建設予定地となり消滅する予定だったが、工事前の発掘調査で遺跡が見つかり工事計画は中断になったとする話があった。

このため、一部の地主が土地を売りそびれたという笑い話もあった。※筆者が幼い頃聞いた話なので信憑性は…

 

年 表

天正年間

小鴨氏の家臣、岡田某が居城と伝わる。

1582年

天正10年

5月25日、毛利方の武将、吉川元長の火攻めによって岩倉城が落城する。

当城も本城であった岩倉城と命運を共にし落城としている。(伯耆民談記)

郷土史ではそのまま廃城になったと伝えている。

地 図

 

写 真

訪城日 2019/2/24

東側からの遠望

南西側からの遠望

北西側からの遠望

東腰郭から建造中のバイパス

現地案内板

北東の残存土塁と川濠

北東の残存土塁

北東の残存土塁

主郭東側切岸と北東残存土塁を持つ腰郭

主郭の東側腰郭の北端

東側腰郭の北端から北の郭郡

案内版と主郭への虎口

主郭の虎口

主郭

主郭

主郭

主郭

主郭から登り土塁の遠望

主郭西側上段の西郭

西郭

南西虎口の東側土塁(主郭の西南角)

主郭周囲を巡る空堀と土塁

南西虎口の北側土塁(西郭の南)

南西虎口の北側土塁(西郭の南)

西郭の登り土塁(南)

西郭の登り土塁(南)

西郭の登り土塁(南西角)

西郭の登り土塁(南西角)

西郭の土塁(西)

西郭の土塁(西)

西郭の土塁(西)

西郭の土塁(西)

西郭の土塁西側上の穴(果樹倒木跡?)

西郭の土塁西側上の穴(果樹倒木跡?)

主郭の登り土塁(北)

主郭の登り土塁(北)

主郭の登り土塁(北)

主郭の登り土塁(北)

主郭から西郭の登り土塁(北)

主郭から西郭の登り土塁(北)

主郭から西郭の登り土塁(北)

主郭の登り土塁(北端)

空堀(北)の東端

空堀(北)

空堀(北)

空堀(北)

空堀(北と西)の交差部

空堀(北と西)の交差部

空堀交差部の土橋

空堀交差部の土橋の堀切

空堀交差部の土橋の堀切

空堀交差部の土橋の堀切

空堀(北西)

空堀(北西)

空堀(北西)※中央は茶畑の用水路跡

空堀(北西から西)

空堀(南西)※高低差は6~8m

空堀(南西)

南西の虎口西側の土塁残存部

南西の虎口

南西の虎口内

南西の虎口内

南西の虎口西側の土塁残存部

南西の虎口内の土橋

南西の虎口内の土橋

南西虎口の東側土塁(主郭南西から)

南西の虎口内の切岸

南西の虎口の北側土塁(主郭南西から)

主郭北側の空堀を隔てた郭(北郭)

北郭の切岸

北郭西側の土塁上(字「林ヶ平」)

北郭西側の土塁と切岸(字「林ヶ平」)

字林ヶ平周辺の斜面(果樹園・茶畑跡)

城跡から東には梅林山香岳寺

梅林山香岳寺の本堂

梅林山香岳寺の境内

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