伯耆国 久米郡
みえじょう
三江城
所在地
鳥取県倉吉市三江
城 名
三江城(みえじょう)
別 名
―
築城主
不詳
築城年
不詳
廃城年
不詳
形 態
丘城・海城
遺 構
郭跡、土塁、堀切、横堀、竪堀、切岸、空堀、虎口
現 状
番田稲荷神社、山林
備 考
史跡指定なし
縄張図
三江城略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)) ※鳥取県教育委員会提供
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
新修 倉吉市史 第二巻 中・近世編(平成7年3月 倉吉市史編集委員会)
日本歴史地名大系32巻 鳥取の地名(1992年10月 平凡社)
第64回県史だより(平成23年7月) ※第64回県史だより/とりネット/鳥取県公式サイト (tottori.lg.jp)
概 略
国府川の南岸に所在し、流路を沿うように続く丘陵先端部に所在したと伝える。
丘陵南側からやや離れた位置に北谷川が流れているが、往時は今より北側の尾根裾野付近(集落中央付近)を流れていたことが道路配置から伺える。
このため南北を天然の川堀で囲まれた要害であったとする他、両川を利用した水運を掌る施設であった可能性も推測される。
国府川に面する尾根東側の先端には土塁と堀切が配されていたことが残存する遺構から読み取れ、河川からの侵入に対する意識がなされていたことも伺える。
丘陵西側には大堀切も残されているが、堀切は連郭を巡るように北側、南側へとそれぞれ続いている。
北側は横堀へと変わり、国府川に対する面には切岸を配して高低差を付けていることから国府川に接する北側、東側の防御力を特に高めていたと推測される。
南側は竪堀へと変わり、南端の一部土塁が残る場所へと繋げると枡形虎口が配されていたことが伺える。
大堀切以西にも尾根上に郭跡と考えられる平坦地や旧寺院跡と推測される方形区画(上米積に所在)が続く。
往時は伯耆国高城城まで続く古道があったとされることから本城の高城城と支城の当城を繋ぐ中間施設が所在したとも考えられる。
地名からは村内に3つの河川の存在を伺わせるが、主流の国府川とこれに注ぐ北谷川のみが見える。
往時にもう一本の河川が存在したか、国府川と北谷川が合流し国府川へ統合する際に「Y」の字を成したことから「三筋の江」として名付けられた可能性などが推測される。
新修 倉吉市史では遺構の状態、地理的要素から城跡と推定している。
現在の番田稲荷神社が鎮座する丘陵を城跡と推定し、多段の郭跡に土塁や堀切など防御施設が残ると記している。
1524年(大永4年)、大永の五月崩れでは尼子方の攻撃を受け落城とされる。(日本歴史地名大系32巻 鳥取の地名 三江村の条)
番田山に高城城の出城が築かれており、国府親俊が高城城を居城にした頃の話と伝える。
往古、山頂には番田山清源寺と号する寺院が存在したとしている。
番田山清源寺は三江神社の鎮護寺であったとされ、1694年(元禄7年)に金地福山定光寺の末寺、薬王山泉光寺が久米郡八代村国府から現地へ移転となり、新たに寺院が建立されたことに伴って吸収され消滅とする。
異説では薬王山泉光寺の移転改組の時期を慶長年間としている。
番田山清源寺が曹洞宗へと改宗の後、当地へ移築された薬王山泉光寺を襲名したと伝え、こちらの説では改称が成されているが一応の存続としている。
現在は薬師瑠璃光如来を本尊とする曹洞宗の寺院となり、開山は金地福山定光寺二世の清寧妙祐和尚によるものとしている。
南西側の集落から林道を進むと五輪や石積が集積された区画があり、その付近に防空壕、或いは通信壕のような巨大な横穴が見える。
これは捷号作戦の準備下令に基づく沿岸要域骨幹築城等の実施(ち号演習)によって造られた戦争遺物と伝えている。
鳥取県下では1945年(昭和20年)5月7日より一斉に作業が始まったとされ、倉吉市内では旧倉吉町の打吹山に狙撃陣、高城村に飛行場、西郷村に防空壕と格納庫、湯梨浜町では橋津村や宇野村に防空壕が普請されたと伝えている。
尚、宇野村については5月5日から作業が始まっていたことを役場の日誌に記している。(第64回県史だより 他参考)
写 真
2021年10月31日
番田稲荷神社
堀切
堀切
堀切
堀切
堀切
集石
写 真
2015年5月24日