伯耆国 久米郡

おおたにじょう

大谷城

倉吉 大谷城

所在地

鳥取県倉吉市大谷 / 鳥取県倉吉市上神

城 名

大谷城(おおたにじょう)

別 名

築城主

不詳

築城年

不詳

廃城年

不詳

形 態

山城

遺 構

郭跡(腰郭・帯郭)、土塁、堀切、空堀、切岸、虎口

現 状

山林

備 考

史跡指定なし

縄張図

城 主

伯耆山名

大谷村を保国寺領とする時代、地域支配者としての城主とする。(光源院文書 惟高妙安置文)

惟高妙安

山名澄之から寄進を受けるなど保国寺の寺領を管理した人物。(光源院文書 惟高妙安置文)

城 主

南条

奥上忠兵衛尉

…光源院領(保国寺領)を実効支配する南条宗勝の代官として保国寺領を管轄した人物。(光源院文書 山縣春次・井上春佳書状)

参考資料(史料及び文献、郷土史など)

光源院文書 惟高妙安置文(天文18年6月9日)

光源院文書 足利義昭御内書(発給年不明6月1日)

光源院文書 山縣春次・井上春佳書状(天正11年8月26日)

光源院文書 蜂須賀正勝書状案(天正12年7月7日)

光源院文書 南条直秀書状(天正12年11月24日)

第4回 古戦場・山城・荘園をあるく ―山名氏の伯耆支配と上神地域― 《資料編》(令和元年11月10日配布資料)

第4回 古戦場・山城・荘園をあるく ―山名氏の伯耆支配と上神地域― 《ガイド編》(令和元年11月10日配布資料)

伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)

伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)

伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)

伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

因伯文庫 伯耆民談記(昭和35年3月 萩原直正校註)

新修 倉吉市史 第二巻 中・近世編(平成7年3月 倉吉市史編集委員会)

年 表

城名や城歴を記した記述が見えないため委細不詳。

概 略

往古の八代郷大谷村と上神庄上神村に跨る四王寺山に所在した山城と伝える。

城名や城歴など城砦に関する直接的な記述が見つかっていないため委細不詳の城砦であるが、残存する遺構の特徴から天正年間頃の毛利氏南条氏による東伯耆での騒乱の最中、占有した勢力が短期間に入れ替り、戦況に応じて増改築が成されていった施設と推測されている。

四王寺山の山中には大東亜戦争末期の「ち号演習」による防空壕跡や塹壕跡が幾つか現存し、主郭南側の堀切も改変され古道として利用された形跡が残るなど比較的新しい造作の痕跡も見られる。

 

光源院文書 惟高妙安置文

大谷保国寺開山桂昌院殿也。霊光院殿御母儀也。其時之相公者鹿苑院殿御代弐百年余也。(略)

大谷保国寺之儀、養素院殿御代為、広徳軒領先師瀑岩仁御寄附。其後高尾卅五石、高源寺殿瀑岩仁御寄附。

又其後栖庵分、蔵光分弐名、寿福院殿某仁御寄附。其後国分寺、四王寺両所、瑞仙寺殿某仁御寄附也。

天文拾八年六月九日 妙安(花押)

 

当地が伯耆山名氏による統治であった頃、山名氏之の母とする桂昌院が大谷保国寺を開山と伝えており、保国寺領の大谷村は山名氏之の近しい一族の所領であったと推定される。

桂昌院による開山から約200年後、保国寺は山名政之から広徳軒(後の光源院)の瀑岩等紳へと寄進されている。

1549年(天文18年)、保国寺の文学僧であった惟高妙安に対して寿福院から栖庵分と蔵光分二名、瑞仙寺の山名澄之から国分寺と四王寺が寄進されている。(光源院文書 惟高妙安置文)

 

光源院文書 足利義昭御内書

伯州光源院領所々事。近年無寺納由候。彼院之儀、先代位牌所之間、急度可申付候者、可為喜悦候。毛利父子かたへも申遣候。猶信恵、藤長可申也。

六月朔日 (花押)

南条豊後入道とのへ

 

1565年(永禄8年)、足利義輝の死去により広徳軒が足利義輝(光源院殿)の位牌所となったため、名称を光源院へと改め、将軍の遺徳を害しないよう幕府から伯耆国の領主に対して保国寺の保全を命じている。

この頃の光源院領(保国寺領)は毛利方に与した南条宗勝が実効支配を行ったとされているが、光源院領の寺納分(年75石)を毛利氏へと上納せず、足利義昭からの催促にも応じることはなかったとしている。(光源院文書 足利義昭御内書)

 

光源院文書 山縣春次・井上春佳書状

伯州大谷保国寺七拾五石之儀。従光源院数年雖被仰越候。南条依無同心之不相調候。然者此節被仰下候。申聞候之処南条対芸州依逆意、被及行候。可被任本意之条、可□置之由被申候。尤目出度候。此由対彼御使僧、従貴殿様可被仰渡之旨、御方迄可申入之由候条。可預御心得候。恐々謹言。

八月二十六日

山縣弥五郎 春次(花押)

井上木工允 春佳(花押)

 

奥上忠兵衛尉殿 御陣所

 

1583年(天正11年)、毛利氏南条氏による東伯耆の騒乱が激化する中、保国寺領を管轄していた奥上忠兵衛尉に対して吉川方の山縣春次井上春佳両名より保国寺領の支配を委ねる旨が伝えられている。

書状には保国寺への寺領(75石)が数年に亘って南条氏から支払われていなかったが、此度南条氏が織田方へと離反したため以降は南条氏の意向に従うことなく奥上忠兵衛尉の独断によって保国寺領の支配を毛利氏が認めるとした離間工作とも取れるやりとりが行われている。(光源院文書 山縣春次・井上春佳書状)

 

光源院文書 蜂須賀正勝書状案

(略)三ヶ所之事、大谷、国分寺、四王寺、此所々秀吉公堅我等より申。早々引越候様との御諚候間、其分御心得尤候。(略)

(略)先日八橋之事、具申入候。其分可有御心得候。仍貴殿様之被下置候三郡之内に度々申き相国寺光源院領数ヶ所候えば、三ヶ所に被書付、秀吉公へ御申、高頭三ヶ寺由申候。(略)

七月七日

蜂彦右衛門尉 正勝(判)

南勘兵様 参 人々御中

 

1584年(天正12年)、蜂須賀正勝南条元続に対して和睦後の東伯耆三郡の処置について、概ね予定通りになるであろう旨を知らせている。

東伯耆三郡内に点在した光源院領については先立って光源院より3ヶ所の宛行が申請されており、羽柴秀吉にも内訳を上申済としている。(光源院文書 蜂須賀正勝書状案)

 

光源院文書 南条直秀書状

(略)大谷村引渡申候処、八月以来四王寺分所務被作候之間、当年之儀は四王寺分可有御所務之由に候。何分にも彼方次第に仕候。委曲此方任口上候。恐惶謹言。

十一月廿四日

南勘兵 直秀(花押)

蜂彦右様 人々御中

 

1585年(天正13年)、毛利氏羽柴氏の和睦により八橋川以東の東伯耆三郡が南条氏の領有と確定する。

南条元続は光源院に大谷村の知行を割り当てる考えであったが、光源院は既に8月より四王寺分の所領を治めていたため、仕方なく本年は四王寺分を治めさせることになったと蜂須賀正勝に報告している。(光源院文書 南条直秀書状)

写 真

2022年1月12日(南側主郭周辺のみ)

登山口の祠

登山口

登山道

登山径

登山道中の眺望

眺望

登山道見取図

案内板

ち号演習痕(塹壕跡)

ち号演習痕

ち号演習痕(塹壕跡)

ち号演習痕

ち号演習痕(塹壕跡)

ち号演習痕

ち号演習痕(防空壕跡)

ち号演習痕

主郭南側の堀切

主郭堀切

主郭南側の堀切

主郭堀切

主郭東側の切岸

主郭堀切

主郭南側の土塁

主郭土塁

主郭西側の切岸

主郭切岸

主郭

主郭

主郭

主郭

主郭

主郭

主郭

主郭

主郭

主郭

主郭南西の虎口

主郭堀切

主郭北側の堀切

主郭堀切

主郭北側の堀切

主郭堀切

主郭北側の帯郭跡

主郭帯郭

四王寺

四王寺

高見神社跡

高見神社跡

道中の五輪塔

高見神社跡

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