伯耆国 八橋郡
せとじょう
瀬戸城
所在地
鳥取県東伯郡北栄町瀬戸
城 名
瀬戸城(せとじょう)
別 名
要害山城(ようがいやまじょう)…所在する要害山に因む呼称。
築城主
不詳
築城年
不詳
廃城年
1524年(大永4年)
形 態
丘城
遺 構
郭跡(帯郭、腰郭)、切岸、竪掘、横掘、堀切、土塁
現 状
金刀比羅宮、瀬戸神社、畑地、荒地、住宅地
備 考
史跡指定なし
縄張図
瀬戸城古図に推定図あり
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
瀬戸城古図(瀬戸神社所蔵)
郷土史概況(橋本三郎)
大栄町誌(昭和55年3月 大栄町合併20周年記念出版 大栄町誌編さん委員会)
新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ(平成24年6月 鳥取県神社誌編纂委員会)
大誠村郷土史(平成21年3月 橋本三郎)
由良川物語(平成14年3月 由良川を歌う会 吉松清次)
八橋郡瀬戸村要害山鎮座産神国司大明神棟札(写)
日本歴史地名大系第32巻 鳥取県の地名(1992年10月 平凡社
年 表
1156年~1159年
保元年間
穐近氏が城鎮護のため瀬戸神社を勧請したとある。(新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ)
1521年~1528年
大永年間
兵火により文書等焼失。大永の五月崩れによる落城と推測される。(新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ)
概 略
現在の金刀比羅宮の鎮座する山が「要害山」或いは「城山」と呼ばれ、戦国時代には穐近氏が城主であったと伝わる。(大誠村郷土史)
穐近氏は井谷氏の祖先との記述も見えるが双方とも説得力に乏しく断定は出来ないとしている。(大栄町誌)
瀬戸城古図(瀬戸神社所蔵)
本丸二十四間四方、高さ二十四間、周囲八十六間、南堀二十六間(幅二間、深さ六間)
古図には城の規模の他、南側に堀の存在が示される。
北側、東側は由良川を利用した天然の川掘となり、西側は急峻な切岸(高低差約46m)、南側は幅約3.6m、深さ約11mの空堀を配した堅牢な城郭であったとされ、現在も南側の堀の遺構と思われる溝跡が確認できる。
一方、明治初めの頃には金刀比羅宮を勧請しており、この工事で本丸周辺の遺構は破壊されたとも伝える。
金刀比羅宮勧請による改変が何処まで及んだか正確な記録が伝わっていないとされるため遺構は後世の改変である可能性も考えられる。(金刀比羅宮の宮司さんの話)
新修鳥取県神社誌 瀬戸神社の条
大永年間(1521年~28年)の兵火により文書等焼失した。もとは飯ノ山(現在の御旅所)に鎮座していた。保元年間(1156年~59年)、要害山城主秋近氏が城鎮護の神として現社地、湊山に奉遷したと伝える。
瀬戸神社は元来、飯ノ山に鎮座していたとある。
保元年間(1156年~59年)、穐近氏により城郭鎮護の為、由良川対岸の飯ノ山から現地(湊山)へ移されたとしている。
大永年間(1521年~28年)には兵火に遭い文書などが消失とされることから1524年(大永4年)の大永の五月崩れによって落城したと推測される。
地勢的にはここより西側に所在する伯耆国由良城、伯耆国六尾城との運用も考えられることから一帯を難所として由良要害と表現されたとも考えられる。
写 真
2015年5月17日