伯耆国 八橋郡

むつおじょう

六尾城

北栄 六尾城

所在地

鳥取県東伯郡北栄町六尾

城 名

六尾城(むつおじょう)

別 名

築城主

築城年

不詳(応仁年間以前には所在か)

廃城年

1524年(大永4年)

形 態

丘城

遺 構

不明(子守神社に郭跡と土塁)

現 状

住宅地、子守神社

備 考

史跡指定なし

縄張図

大栄町誌に凡その位置図あり

城 主

伯耆山名

石見国の城主であったが、この地に移り居城を構えたとある。(大栄町誌)

参考資料(史料及び文献、郷土史など)

大栄町誌(昭和55年3月 大栄町合併20周年記念出版 大栄町誌編さん委員会)

新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ(平成24年6月 鳥取県神社誌編纂委員会)

日本歴史地名大系第32巻 鳥取県の地名(1992年10月 平凡社)

年 表

1467年~1477年

応仁元年~文明9年

応仁の乱による戦火に遭い落城とある。

この頃(戦国時代)に石見国から六尾出羽守が移り住んだとしている。(大栄町誌)

1524年

大永4年

尼子経久による伯耆国侵攻(大永の五月崩れ)によって落城し、伝承には六尾出羽守も討死したと伝える。

概 略

戦国時代、石見国の城主であった六尾出羽守がこの地に居城を構えたとある。(大栄町誌)

応仁の乱と大永の五月崩れによって2度落城したことが伝えられている。

 

現在は宅地化され居城のあった丘も多くが切り崩されてしまっているが、六尾集落の城山と伝わる場所には「六尾出羽守之墓」と刻まれた碑があり、墓碑の周辺に六尾出羽守の城館が所在したと伝えている。

城館推定地から東側の田畑は現在でも「城の前」と呼ばれている。

 

墓碑から西南に鎮座する子守神社は城郭鎮護の為に勧請と伝わることから神社を含めた六尾集落の全域が城域と推測される。

子守神社の境内は土塁によって囲まれているが城砦に関する遺構とするかは不明。

立地や地形を見た場合、ここより西の伯耆国由良城、東の瀬戸城と連携した運用が想定されることから難所として一帯を由良要害と表現されたとも推測される。

 

新修鳥取県神社誌 子守神社の条

六尾城鎮護の為に勧請したと伝える。中古戦乱の際に城は陥落したが六尾一族が此の地に住居して一村落をなし、六尾と称するようになったと言う。

 

鳥取県神社誌の記述からは2通りの解釈ができる。

一つは伝承に1524年(大永4年)、尼子経久による伯耆国侵攻(大永の五月崩れ)を受け、六尾出羽守が討死と伝わる。

中古の戦乱を大永の五月崩れと推定する場合、六尾出羽守が討死した落城後に難を逃れた一族はこの地へと戻り、再度集落を形成し六尾村を称したとする流れが考えられる。

一つは村民が六尾出羽守の遺徳を忍んで家名を村名としたことを六尾村の始まりと伝える。

遺徳を称えられたとするなら比較的長期間に渡り当地を治め、善政を敷いていたと推定されることから中古の戦乱を応仁の乱と推定する場合、当地には応仁年間(1467年~1469年)以前から城砦が存在していたことが伺える。

応仁の乱の戦火によって一時灰塵に帰したが、石見国から六尾出羽守や一族が移り住むと新たに城砦や城下の集落を整備し、六尾村を称したとする流れも考えられる。

 

一説には周辺に六つの尾(柴尾、雉子尾、長尾、中尾、大塚尾、カワノ尾)と名の付く小字があったことを村名の始まりとし、六尾出羽守や一族に因まない伝承もある。

写 真

2015年5月17日

六尾集落の遠望

遠望

伝・六尾出羽守の墓

六尾出羽守の墓

伝・居城跡

伝・居城跡

外構の端に宝筐印塔

宝筐印塔

子守神社と鳥居

子守神社

子守神社

子守神社

子守神社境内

子守神社

子守神社の土塁(外側)

子守神社

子守神社の土塁(内側)

子守神社

字「城の前」

字「城の前」

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