伯耆国 八橋郡
つきのしたごうぞくやかた
槻下豪族館
所在地
鳥取県東伯郡琴浦町槻下
城 名
槻下豪族館(つきのしたごうぞくやかた)
別 名
槻下豪族居館(つきのしたごうぞくきょかん)
槻下館(つきのしたやかた)…日本歴史地名大系第32巻 鳥取県での呼称。
槻下城(つきのしたじょう)…伯耆民談記での記述。
月ノ下城(つきのしたじょう)…伯耆民談記での記述。
築城主
不詳(岩野弾正が推定される)
築城年
不詳(鎌倉時代頃と推定される)
廃城年
不詳
形 態
丘城、居館
遺 構
郭跡(方形郭、帯郭、腰郭)、土塁、虎口、土橋、切岸、横堀、空堀、井戸跡、竪掘(畝状)
現 状
山林、竹林
備 考
琴浦町指定史跡(昭和49年5月1日指定)※東伯町指定史跡として登録
縄張図
槻下豪族館略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)) ※鳥取県教育委員会提供
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
槻下神社由来記(安永年間 槻下神社神官池本家文書)
伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)
伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)
伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)
伯耆民談記(昭和35年3月 印伯文庫)
東伯町誌(昭和43年12月 東伯町誌編さん委員会)
鳥取縣神社誌
新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ(平成24年6月 鳥取県神社誌編纂委員会)
日本歴史地名大系第32巻 鳥取県の地名(1992年10月 平凡社)
概 略
槻下集落より東方のなだらかな台地、大字槻下(小字大堀(おおぼれ)と小字上前田)に所在する。
台地上の東西に土塁を配した2つの方形郭(屋敷跡)を持ち、外周を堀で囲み防御力を高める構造から鎌倉時代頃の城館跡と推定されるが詳細な伝承は不詳。
城主に岩野弾正(岩野弾正房・岩野弾正坊とも)の名が見える。(伯耆民談記、槻下神社由来記)
伯耆民談記 巻ノ第十五 八橋郡古城之部 槻下城の条
伯耆民談記の記述は改訂の年代、出版社、著者により変化している。
日本歴史地名大系第32巻 鳥取県の地名では伯耆民談記に記述があるとして「槻下館」と呼称している。
岩野弾正は当館から南西に位置する和伊智三社大明神(現在の槻下神社)を崇敬し社領数十石を認めている。
城内守護の産土神としても崇拝したとされ、武運長久を願ったとも伝えられる。(鳥取県神社誌 槻下神社など)
「垣ノ内」という字名が残っている場所が当館と槻下神社を繋ぐ中間に位置することから、槻下神社も当館の城域内に所在したと考えると広大な規模を誇った城郭であったと推定される。
主郭と推定される西の方形郭は約40m×50m、四方に約2m程度の土塁(堀底からは約2.5m~3m)を築き、北西はやや切岸状で土塁の切れ目に虎口と土橋が配されている。
主郭北側の切岸下にはL字土塁を持つ腰郭、更に北側には土塁と空堀を配した遺構(北側接続部は切岸状)が見えることからL字土塁を持つ腰郭が防衛戦では要の郭になると推測される。
主郭から空堀を挟んだ東側の方形郭は二ノ丸とされ、約30m×50mと長方形で北側~東側の北東側にのみ土塁が残る。
西側の主郭を守る意図があれば南側~東側の南東方面まで土塁を配したことが推定できるが現在土塁の痕跡は確認できない。
東西の方形郭は中央を空堀で隔てられ、外周に空堀を配して防御力を高めている。
堀の巾は約3m~4m程度、深さは約2m~3mとなり、土塁の高さと合わせると約5m~6mの比高となる。
堀は空堀とされているが東西の方形郭を分ける堀の北側は水が溜まり沼のようであったとしている。(東伯町誌)
この水の溜まった堀の部分から水堀とする説も見える。(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編))
L字土塁を持つ腰郭より以北の山中には不明瞭ながら郭のような平坦地が見え、北東の2条の竪掘や空堀(或いは3条以上の畝状竪掘群)が残る場所には土壁で固められた井戸跡のような窪地が残ることから、縄張図以北の山中にも城砦に関係する施設が存在した可能性も推測される。
古い地名では北側の台地を「陣馬野」と呼び、馬術訓練が行われていたと伝える口伝がある。
また、「門田」の地名は当館の主人が最も大切にした手作りの田地とされる。
周辺には豊かな田圃が広がり、槻ノ郷(古布庄)の領主が経済力を背景に強固な地盤を維持していたことが伺える。
槻下の地名について「槻下」を「月ノ下」とする記述が残るが、この由来となる伝説が東伯町誌に見える。
その昔、西行法師が諸国を巡遊しこの地を訪れた際、以下の詩を詠み村民を揶揄したとする。
「世界みな月の下にてあるものを この里ばかり月の下とや」
法師の詩に対し、機転を利かせた村民が以下の通り返している。
「この里は槻(いつき)の下と書くものを 照る月ばかりつきと思うか」
この問答の後のやり取りは不明だが相当気まずい雰囲気になったことは想像に難くなく、西行法師は早々にこの地を離れたと思われる。「槻ノ下」は槻下神社の境内に神代以来の槻の大木があったことを由来としていることから「月ノ下」は他所の者が音のみを聞いて書き記したものが残っていると考えられる。
鳥取県神社誌 槻下神社の項
創立年は不詳。往古より和伊智三社大明神と称し、この郷の領主岩野弾正坊の信仰の社で社領数十石あった。慶長六年(1601)9月、中村伯耆守より社高五石を寄進され、寛永10年(1633)11月、藩主池田氏より五石八斗七升の寄進があった。明治元年に槻下社と改め村内末社天神(道眞公)を合祀、同6年に槻下神社と改称。最古の棟札は延宝7年(1679)のもので当時の由緒書も現存する。
現地は琴浦町指定史跡に定められているが民有地のようで、一部のパンフレットには見学の際は事前に教育委員会へ問い合わせて欲しいとしている。(民有地のため整備がなされていないようである)
写 真
2019年2月24日