よみがな
人物名
はんのえ とうえもんのじょう しげよし
半江藤右衛門尉繁吉
出身
不詳
生年
不詳
没年
不詳
氏
不詳
姓
不詳
名
半江
通称
藤右衛門
諱
繁吉
官途
右衛門尉、左衛門尉
別名
半口藤左衛門(はんごう とうざえもん)…伯耆志に於ける呼称。
半ノ口藤右衛門(はんのくち とうえもん)…郷土読本 巻一にて振り仮名が振られている。
半口藤右衛門(はんごう とうえもん)…日野郡史、江府町史に於ける呼称。
所属
毛利
列 伝
半ノ江村に63石の知行を得た勇猛な智将と伝える。
伯耆志では「半口藤左衛門」、日野郡史では「半口藤右衛門」と記述に見えるが、これは「江(コウ)」の音読みから「口(コウ)」を当てた誤字と伯耆志に注釈が見え、半ノ上(はんのえ)村の地名からも「半江」が正しいとされる。
江府町史では日野郡史を踏襲しており、江府町史を踏襲した郷土史の一部では「半口藤右衛門尉」と記述が見える。
伯耆志 半ノ上村(亡村)の条 辻堂の項
木佛三軀を安す。中一は半口藤左衛門の像と伝えり。往古、州河崎村相見ヶ淵に大山椒魚あり。此の魚、往々村民を害す。当時の代官半口氏、是を聞いて自ら彼の淵に臨み、水中に入て椒魚を刺殺す。村民是より其害を免るる事を得ければ後、半口氏の肖像を作りて其恩に報するなりとぞ。当時、半口氏椒魚を屠りし短刀、荒神の祠中に韞め置きたりしを今紛失すと云へり。按するに半口の口もしくは江の字の誤ならん。歟半口を伝へる。姓も似つかはしからず。半江なら半の工を訓へし。然らば村名も同氏の姓字を以て呼べるか。江を上と轉訛せるものならん歟。
日野郡史 大ハンザケ伝説
神奈川村大字州ヶ崎(州河崎)字上工ノ(半ノ上)山に一宇の堂あり。半口何時の頃かに半口藤右衛門といふ大宮あり。六十三石を領し、頗(すこぶ)る勇名あり。当時、同村相ヶ淵に巨大なる山椒魚あり。人畜を害する由を聞き、框を製してその内に潜み、川上より流れ出でて山椒魚が呑み込むところを框内より刺殺しけり(略)
江府町史 ハンザケ伝説(要約)
当時、アミヶ淵に巨大なハンザケがおり、夜昼なく人畜に危害を加えていた。城主が退治するため村人に大きな箱を作らせ、その中に潜入すると淵の上流から流させた。
ハンザケに飲み込まれそうになった時、箱から刀を突き出し刺し殺した。
伯耆志では半ノ上の村民を害する大山椒魚(オオサンショウウオ、ハンザケ)を退治した人物とする伝承が伝わる。
伝承に因み藤右衛門を祀った大宮があり、63石を領したと記録される。(日野郡史)
大ハンザケ退治の伝承については大きく以下の2説が元になり、諸説存在する。
・水中で格闘の末に刺し殺す説(伯耆志)
・框で箱を作るとその中に入り、川上から流させハンザケが呑み込んだところを框の中から刺し殺す説(日野郡史、江府町史)
息子、亀ノ丞の縁談相手が大野修理亮治長の娘とされることから天正年間以降の人物と推定される。
伝承では大野修理の諱が誤って記述されていることから伝承に箔を付けるための脚色が付け加えられたものと考えられる。