所 属

毛利

よみがな

人物名

てんじく さぶろうしろう もとうじ

天竺三郎四郎元氏

伯耆志(久連村の条)での表記

 

別 名

てんじく さぶろうじろう もとうじ

天竺三郎治郎元氏

鳥取縣神社誌(佐川神社)での表記

 

別 名

てんじく さぶろうじろう みなもとのもとうじ

天竺三郎二郎源元氏

伯耆志(佐川村の条)での表記

 

別 名

ほそかわ てんじく さぶろうじろう もとうじ

細川天竺三郎二郎元氏

伯耆志(佐川村の条 系図)での表記

 

別 名

ほそかわ あまがさ さぶろうじろう

細川天笠三郎治郎

鳥取縣神社誌(昭和九年版)での表記

 

別 名

てんじく しろうさぶろう もとうじ

天竺四郎三郎元氏

日野郡史での表記

官 途

不詳

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

不詳

朝臣

元氏

列 伝

毛利家の家臣で備中国軽尾城、伯耆国美女石城の城主とする。

備中国では軽尾城の城主を務めていたが、天正年間に伯耆国へ移転した際は美女石城の麓に天竺屋敷と呼ばれる居館を構えていたと伝える。

 

一族は備中国守護、細川氏の庶流とも伝えることから細川氏を称する文書や系図も見える。

伯耆志では系図が記載されているが、該当の家譜について「元氏以徃の事甚猥なり後世杜撰に補いたるものと見ゆ」と注記があり、天竺氏綱以降は尊卑分脈系図慕等に見えないとしている。

 

伯耆志 久連村の条 古城の項

美女石城と号す。天竺三郎四郎元氏、天正の初年、此の地に住居すと云えり。残礎の存する所を美女石と云う。天竺氏当時佐川村を領し当村は生山村の住人景行知行せしと云えり。天竺氏の事、佐川村住田氏の條下見るべし。

 

1573年(天正元年)

軽尾城から美女石城へと転移する。

「残礎の存する所を美女石と云う」と伝えていることから天竺屋敷の所在地を美女石城としている。(伯耆志)

 

伯耆志 佐川村の条 神主住田氏の項

細川氏の裔にて天竺三郎二郎元氏の弟、住田甚兵衛尉久次を祖とす。天竺は伊豫の地名にて(古今著文集十二の巻に後鳥羽院御時伊豫国大寺の島と云う處に天竺の冠者というものありけり云々と見えたり。これ天竺という地に生まれたる人なるべし)天竺以住の人々其所に住居せし趣なり。応仁記舟岡山合戦の下に云々(略)天正元年、当郡美女ノ石城に転移す。(宮原村久連村の下見合すべし)上に挙る八幡宮は元氏の草創にて当時七十五石の社領を附す。同八年、播磨国三木ノ城主、別所長治滅亡の後、其の臣、住田帯刀勝久の長子久正(別所長治記播州征伐記等には見えず)来て会見郡岸本村に居る。(会見郡吉定村瑞応寺の伝に別所長治日野郡別所村に居りし事ありと云えり。別所村は吉定村に相接して岸本村に遠からず。実にさる所縁などありて住田氏も岸本村に来りしにや猶考うべし)当村亀山城馬田氏議して久正を八幡宮の社司とす。通称を宮代と云えり。久正三十三歳にて死す。継嗣無きを以て天竺元氏の弟久次家を続くと云えり。此の後、何の頃歟、元氏又備中軽尾城に帰る(天正十年と云えり)期に臨み長船忠光の刀并系図一巻を久次に與うと云えり。

 

1582年(天正10年)

美女石城から再び軽尾城への転移を伝える。(伯耆志)

但し岡山県内の史料や伝承には備中国へ戻ったとする記録が見えないとされ、足跡が途絶え消息不明となる。

所領の運営手腕には定評があり、自身が治めた伯耆、備中の領民から慕われたとする伝承が伝わっている。

善政を敷き人望を集めすぎたためか、為政者や敵対勢力によって帰路の道中で暗殺された可能性も推測される。

 

伯耆志 佐川村の条 小祠 四の項

村の東東西十六間、南北十二間の平地にあり。天正十三年八月の棟札あり。本願将更に天竺三郎二郎源元氏、神主住田甚兵衛尉久次とあり(仔細下に記す)。新八幡と称する小祠あり。往古此の地の城址にありしを中古今の地にうつすと云えり。下に挙る馬田四郎五郎の霊社なりとぞ。小祠 十三。

 

鳥取縣神社誌 佐川神社の条

(略)天正十三年、美女石城細川天笠三郎治郎、宏荘なる社殿を造営し社領高七十五石寄進せしこと棟札に見ゆ。寛文年中、社殿焼失古書類宝物等を失う。(略)

 

1585年(天正13年8月)

伯耆志及び鳥取縣神社誌(佐川神社の項)では願主として佐川神社を造営とある。

1582年(天正10年)の段階で造営指示を出した直後に伯耆国を去ることとなり完成を見なかったとするか、完成を見て伯耆国を去ったとするかで美女石城への在城期間に異なる説が存在する。

鳥取縣神社誌では備中国へ戻ったとされる3年後に願主として佐川神社の造営を行ったとすることから、備中国には戻らず弟の住田久次らと佐川の地に留まったとも考えられる。

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