よみがな
人物名
てんじく さぶろうしろう もとうじ
天竺三郎四郎元氏
出身
不詳
生年
不詳
没年
不詳
氏
源
姓
朝臣
名
天竺
通称
三郎四郎
諱
元氏
官途
不詳
別名
天竺三郎治郎元氏(てんじく さぶろうじろう もとうじ)…鳥取縣神社誌(佐川神社の項)での記述。
天竺三郎二郎元氏(てんじく さぶろうじろう もとうじ)…伯耆志での記述。
細川天竺三郎治郎(ほそかわ てんじく さぶろうじろう)…細川氏の庶流とする記述。
天竺四郎三郎元氏(てんじく しろうさぶろう もとうじ)…日野郡史での記述。
所属
毛利
列 伝
毛利氏の家臣で備中国軽尾城、伯耆国美女石城の城主とする。
一族は備中国守護、細川氏の庶流とも伝え、細川氏と称する文書も見える。
備中国では軽尾城の城主を務めていたが、天正年間に伯耆国へ移転した際は美女石城の麓に天竺屋敷と呼ばれる居館を構えていたと伝える。
1573年(天正元年)、軽尾城から美女石城へと転移する(伯耆志)
伯耆志では1582年(天正10年)に再び美女石城から軽尾城へ転移したとするが、鳥取縣神社誌(佐川神社の項)では1585年(天正13年)に佐川神社を造営とある。
造営の指示を出した直後に伯耆国を去り完成を見なかったとするか、完成を見て伯耆国を去ったとするかで美女石城への在城期間に異なる説が存在している。
1582年(天正10年)、伯耆国から備中国へ戻ったとするが、岡山県内の史料では備中国へ戻ったとする記録は見えないとされ消息不明となっている。
所領の運営手腕には定評があり、自身が治めた伯耆、備中の領民から慕われたとする伝承が伝わっている。
善政を敷き人望を集めすぎたためか、為政者や敵対勢力によって帰路の道中で暗殺された可能性が推測される他、鳥取縣神社誌に見えるよう備中国へ戻ったとされる3年後に佐川神社の造営を行っているとされることから、備中国には戻らず弟の住田久次らと共に続けて佐川の地に留まったとも考えられる。