伯耆国 久米郡

しもふくだじょう

下福田城

倉吉市上福田 下福田城

所在地

倉吉市上福田

城 名

下福田城(しもふくだじょう)

別 名

築城主

不詳

築城年

不詳

廃城年

不詳

形 態

丘城、海城、居館

遺 構

郭跡、馬出郭(丸馬出)、土塁、空堀、土橋、隅櫓(哨戒塔)

現 状

竹林、墓地

備 考

史跡指定なし

縄張図

城 主

不詳

委細不詳。

参考資料(史料及び文献、郷土史など)

因伯古城跡図志(1818年 文政元年)

天保十四年癸卯 久米郡福積村田畑地続字限絵図(1843年11月)

天保十四年癸卯 久米郡上福田村田畑地続字限絵図(1843年11月)

天保十四年癸卯 久米郡下福田村田畑地続字限絵図(1843年11月)

新修 倉吉市史 第二巻 中・近世編(平成7年3月 倉吉市史編集委員会)

年 表

不明

城歴不詳。

概 略

伯耆国高城城が所在する高城山の北側、大平山から北へと延びる尾根先端に城郭遺構が残存する。

新修 倉吉市史 第二巻 中・近世編(平成7年3月 倉吉市史編集委員会)では応仁年間以前の築城と推定している。

 

大平山に所在した伯耆国高城大平山城を詰城とした居館跡と推定されるが、因伯古城跡図志には古城跡や寺院跡とした所在を示す図示が見えない。

小規模ながら整然とした空堀と土塁を配し、隅櫓や馬出郭を持つなど単独でも高い防御力を備えた施設であったことが伺えるが、因伯古城跡図志の作成された1818年(文政元年)の段階で図示する必要がない、或いは図示する対象が存在しないために描かれていないと考えると、役目を終えてから相当の年月が経っていたと推測される。

1843年(天保14年)の久米郡下福田村田畑地続字限絵図では字名に「定福寺」、「阿弥陀居寺(阿弥大寺)」が確認できることから、1818年(文政元年)~1843年(天保14年)の間に当該施設を転用した寺院の存在も推測される。

 

城砦は字「定福寺」の方形区画を主郭として西側と南側、北東側に空堀を配しており、西側の空堀の先には土塁、北東側の空堀の先には丸馬出状の郭が設けられている。

主郭南側の空堀の先には緩衝帯として連郭状の郭が配され、その先には再び土塁と空堀が配されており、南端の土塁と空堀は鈎状にクランクしている。

西側の土塁と南端のクランクした土塁の配置から西側、南側は谷部(字「小谷」)からの敵襲に備えた普請と推測され、単独でも十分な防御拠点として評価できる一方、高城大平山城を詰城とする居館跡と推定した場合、極地的な場所に過剰ともいえる普請が行われていることから、残された遺構は高城大平山城に附随した城砦から発展し、後に港湾施設として改修された設備とも考えられる。

港湾施設と推測する場合、中央緩衝帯の連郭は伯耆国河口城にも見える物資の荷揚場とも考えられ、主郭南側の堀跡は幅員から空堀ではなく小舟の往来が可能な水堀であった可能性も考えられる。

 

往時は丘陵の麓まで湿地帯に囲まれていたとされ、主郭北側に見える字「中島」の地名からも尾根北側は小舟などを利用しなければ移動が難しい地形であったことが伺え、北側に空堀がないことは字「定福寺」と字「中島」の間が湿地帯で天然の要害として利用できたことから普請する必要がなかったためと推測される。

南西側の山から注ぐ見川と北側の湿地帯から国府川へ繋ぐ水路を利用した水運の管理をするための港湾施設であったと推測するならば、東側に残る馬出郭は船着場であり、東側、西側、南側に配された堀跡は空堀ではなく、水堀として馬出郭と物資のやり取りを行う水上連絡路とも考えられる。

北東の隅櫓は国府川に対する哨戒と船舶の誘導を兼ねた監視塔、南東の馬出郭南側の腰郭周辺は小舟の往来のための一時退避所などの施設が推測される。

因伯古城跡図志に高城大平山城を屋舗跡とする図示は見えるが、当城に関する描写や記述が一切見られないことから当施設は早い段階で役目を終えたと考えられる。

港湾施設であったとするならば国府川の治水、周辺の灌漑が整い湿地帯が解消された頃と推定される。

 

周辺の字名から鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)に記される城域に収まらない可能性がある。

字「定福寺」の東側には字「阿弥陀居寺」とあり、阿弥大寺古墳群の存在が確認されている。

字「阿弥陀居寺」の西側に字「上小垣」、東側に字「下小垣」と見えることから、阿弥陀居寺(阿弥大寺)の東西に防塁の存在が伺える。

字名の順序も東側を下としていることから、字「定福寺」の方形区画に対して東側の防御を阿弥陀居寺が担ったと考えられる。

字「阿弥陀居寺」の南側には字「湯ヶ谷」が見え、「湯ヶ谷(ゆがたに)」は「要害ヶ谷(ようがたに、ゆうがたに)」が訛った地名と考えられることから、字「定福寺」と字「阿弥陀居寺」が高城大平山城北側の出城の役目を担った施設であったと推測される。

 

城名は「下福田城」と呼称されているが、現在の所在地は倉吉市上福田(旧上福田村)となっている。

1843年(天保14年)の久米郡田畑地続字限絵図(上福田村、下福田村)では字「定福寺」周辺までが下福田村に属しており、往時に城砦が所在したとする認識から下福田村古城とする呼称で相違ないこととなる。

写 真

2024年6月8日

北西からの遠望

北西遠望

丸馬出状の郭跡

丸馬出

主郭北東の空堀

主郭北東空堀

主郭北東の空堀

主郭北東空堀

主郭東側虎口の土橋

主郭東土橋

主郭東側虎口の土橋

主郭東土橋

馬出郭の南腰郭

馬出南腰郭

馬出郭の南腰郭

馬出南腰郭

中央の連郭

中央連郭

中央の連郭

中央連郭

中央の連郭

中央連郭

中央の連郭

中央連郭

中央の連郭

中央連郭

主郭南側の空堀

主郭南空堀

主郭南側の空堀

主郭南空堀

主郭南側の空堀

主郭南空堀

主郭南西空堀の隅

主郭南西空堀

主郭西側の空堀

主郭南西空堀

主郭西側の空堀

主郭西空堀

主郭西側空堀先の土塁

主郭西土塁

主郭西側空堀先の土塁

主郭西土塁

主郭

主郭

主郭

主郭

主郭

主郭

主郭

主郭

南鈎型土塁

南鈎型土塁

南鈎型土塁

南鈎型土塁

南鈎型土塁

南鈎型土塁

南鈎型土塁

南鈎型土塁

南鈎型土塁と空堀

南鈎型土塁

南鈎型土塁と空堀

南鈎型空堀

南鈎型土塁と空堀

南鈎型空堀

南鈎型土塁と空堀

南鈎型空堀

南鈎型土塁と空堀

南鈎型空堀

南鈎型土塁上に礫石

礫石

楯縫神社遠望

楯縫神社遠望

楯縫神社

楯縫神社

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