伯耆国 会見郡
くさかじょう
日下城
所在地
鳥取県米子市日下
城 名
日下城(くさかじょう)
別 名
久坂城(くさかじょう)
築城主
伯耆山名氏
築城年
1400年代(15世紀中)
廃城年
不詳
形 態
丘城(伝承より推定)
遺 構
消滅(江戸時代の初め頃には精進川、或いは佐陀川の氾濫によって消滅したと伝える)
現 状
水田、鉄塔、舗装道路
備 考
史跡指定なし
縄張図
不詳
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻三 大正5年9月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
瑞仙寺文書
岸本町誌(昭和58年3月 岸本町誌編さん委員会)
尾高の里<Ⅲ>(昭和52年8月20日 野口徳正)
尾高の里<Ⅳ>(昭和59年6月25日 野口徳正)
戦国動乱期の伯耆~その戦乱の跡をたどる~(2007年11月1日 米子市立山陰歴史館)
概 略
中世以前は小高い丘があり、15世紀頃に築城された城砦と伝える。
現在は一帯が田圃など農地に改変され城跡に関する遺構は見当たらず字名にのみ城郭の名残を残している。
精進川(佐陀川とも)の度重なる氾濫で城跡の所在した丘陵は次第に削り取られ、江戸時代の初め頃までには消滅とされる。
旧字には古城(ふるしろ)という字が見られ、現在も田圃区画の呼び名として古城が使われている。
他にも「南古城(みなみふるしろ)」「砂堀」など城と関係を伺わせる旧字が見られる。
伯耆志 日下村の条 城跡の項
村の北西二丁許りの田土なり。周回十五間許りの小丘あり。下新印村の下に見えたる真野隠岐守といいし人の城なりしか是は日野郡真野村に在て後、此地に移住せしなるべし。下新印村薬師堂の證文を以て知るべし。年紀を考うるに山名氏の部下なるべし。上に記する如く瑞仙寺の地は当家の別荘の趾なりと云える。
伯耆志では真野隠岐守の城跡として記述が見え、瑞仙寺を別荘の跡(真野氏館)としている。
伯耆志 日下村の条 古鍛冶屋の項
大原安綱の裔といへり当主平吉と号す。今は此業を廃せり。新田義貞朝臣の鬼切といふ太刀は伯耆国会見郡に大原五郎太夫安綱といふ鍛冶一心清浄の誠を致し鍛ひ出たる剣なりとあり。然るに郡中に大原といふ地無くして当村に此家あり。按ずるに日野郡に四箇の大原村あり。然れば其中の地より当村に移りしものなるべし。河村郡に大原村有りて民諺記に安綱彼村に住せし由記せり。此は真守の当跡なるべし。
日下村は日本刀を考案したとされる大原安綱の一族と縁があるとされ、鬼切を生んだ地として伯耆志に記述が見える。
日下村の周辺では製鉄の際に排出されるカナクソが見つかったとされ、鉄に関する何らかの事業が行われていたことが推測されている。
伯耆国内では大原安綱の縁の地とされる場所が多く伝えられ、登場する年代に幅があることから大原安綱は一人の人物ではなく、一族や暖簾を分けた刀工集団、或いはブランドとして各所に工房などを構えていたことも考えられる。
野口徳正氏の著した「尾高の里<Ⅲ>」には城跡は日下集落の北方で精進川と盤川の交わる丘陵に所在したとされる。
(精進川は精神川、盤川は半川、番川などとも呼ばれ氾濫の度に流路が変わったとされる)
当時のバイパス(現在の県道53号線)西側にある田圃整備から取り残された一角の小さな森が城跡であると記されている。
(平成26年現在、その森も改変され送電線の鉄塔などの付随建物施設がある付近とされる)
写 真
2013年6月29日、2014年4月26日