伯耆国 久米郡
わだじょう
和田城
所在地
鳥取県倉吉市和田(字道和寺)
城 名
和田城(わだじょう)
別 名
和田山城(わだやまじょう)…所在する和田山の名称に因む。
築城主
不詳
築城年
不詳
廃城年
1480年(文明12年)8月14日~9月8日に落城。
形 態
丘城
遺 構
郭跡、竪掘、土塁、空堀(或いは堀切)、平入虎口(南西)、土橋
現 状
荒地、雑木林
備 考
史跡指定なし
縄張図
和田城略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)) ※鳥取県教育委員会提供
城 主
伯耆山名
伯耆山名
遠藤九郎三郎
山名元之に与した城将のひとり。
綱嶋五郎左衛門尉
山名元之に与した城将のひとり。
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
山名政豊感状(垣屋文書)
金地福山定光禅寺略縁起
夏谷遺跡発掘調査報告書(1996年3月 倉吉市教育委員会)
新修 倉吉市史 第二巻 中・近世編(平成7年3月 倉吉市史編集委員会)
和田史誌(平成19年12月 和田史誌編集委員会〔和田の明日を考える会〕)
角川日本地名大辞典31鳥取県(昭和57年12月 「角川日本地名大辞典」編纂委員会)
第4回 古戦場・山城・荘園をあるく-山名氏の伯耆支配と上神地域-(令和元年11月10日配布資料)
年 表
1480年
文明12年
8月14日、山名政之に与した垣屋修理進らが和田山周辺に侵入し合戦となる。(和田山合戦)
合戦では山名元之に与した遠藤九郎三郎、綱嶋五郎左衛門尉、他一名の計3名が討ち取られている。(垣屋文書)
9月8日、和久嶋河原まで戦線が移動していることからこの前後の落城が推定される。
1481年
文明13年
6月23日、山名政豊より和田山合戦の功績に対し垣屋修理進へ感状が発給されている。(垣屋文書)
概 略
和田集落の北東に聳える和田山南側丘陵の一支脈、北東から南西の方向に伸びる尾根先端部に所在する。
主郭は四方に空堀と土塁を巡らせた方形郭(約45m×約40m)とされ標高は90m。
昔の地図には更に東の尾根頂部(標高96.3m)に平場と思われる図示も見え、こちらに主郭或いは伝令施設を置いた可能性も考えられるが現在は殆ど高低差が見られない程度に平削されている。
1994年(平成6年)4月~1995年(平成7年)6月にかけ、向山ゴルフクラブ開発事業に係る夏谷遺跡(字夏谷、字袋谷、字中峰、字道和寺)の発掘調査が行われている。
北の谷を越えた尾根までが開発により改変されているが調査報告では古墳時代までの遺構とし中世城郭に関する報告は見えなかった。
城郭に関連しそうな字名として「道和寺」「摩瑠山」「馬場町」「西門」「東馬場」「西ノ馬場」「寺屋敷」「西屋敷」「東屋敷」「平ル林」が残る。(角川日本地名大辞典)
残存する遺構は主郭の四方に空堀を配していることから居館に似た構造で空堀の外側には土塁を配したと推測される。
但し明確に土塁が残るのは東側と西側虎口付近のみで北側及び南側にも土塁を配したかは不明。
北側には東西の土塁が伸びるような痕跡があり崩落によって失われた可能性もあるが倉吉市史では北側の斜面は切岸とし、東の空堀と土塁は尾根を断ち切り進軍を遅らせる程度の役割としている。
主郭西側の平入虎口から先の斜面には射撃戦に特化した縄張が形成されている。
中腹には大竪掘を通し(不明瞭だが小さな竪掘を想像させる堀跡も2箇所見られる)、大竪掘を挟む形で左右に小型連郭群を展開、竪掘以北の郭群には北側の谷筋にも対応可能な郭を配している。(この郭の存在から北の谷を越えた尾根にも何らかの施設が存在したと考える)
主郭正面には人工の竪掘(群)を設け南北の谷筋を天然の掘として利用した場合は畝状竪掘で守備を固めた城砦が推測できそうである。
当城が機能した時代は北側が湿地帯、南側が国府川、北条川と天然の要害を成していたと推測され、西側に竪掘及び連郭群を備え強固な防衛線を構築しているのに対し東側は空堀と土塁のみで防御が非常に薄い。
山名氏が伯耆国田内城を築城した頃から南条氏が東伯耆を領した頃は支城の一つと考えられるが、馬場方面から侵攻を受けた場合は田内城や伯耆国和田東城との連携が難しく、援軍との挟撃など反撃を想定した意図が設計からは見受けられない。
地形の変化により運用方法も変わるが現状では他城との連携に重きを置いた城砦ではなく、単独の城砦か田内城の防衛を整える時間稼ぎのため殿軍の役目を持った城砦とも考えられる。
単独の城砦と推測した場合は田内城の築城以前から山名氏の居城があり、往時は単独の城砦とする運用で完結していたため後に築城される他城との連携を考えていなかった可能性もある。
1480年(文明12年)8月14日、垣屋修理進へと発給された山名政豊の感状では和田山合戦に於いて敵方であった遠藤九郎三郎、綱嶋五郎左衛門尉、他一名の計3名を討ち取ったとしている。
1479年(文明11年)~1481年(文明13年)頃に山名政豊は山名政之を援けるため伯耆へ下向しており、垣屋修理進は山名政之に与した武将であったことから1480年(文明12年)の定光寺村内の当城には山名元氏に与した城将(遠藤九郎三郎、綱嶋五郎左衛門尉)らが詰めていたことが読み取れる。
垣屋文書
於去年伯州度々粉骨、殊八月十二日於円山城責口、被官人数輩被疵、同十四日和田山合戦之時、討捕敵頸一(遠藤九郎三郎)、頸一(綱嶋五郎左衛門尉)、頸一(名字不詳)、同九月八日和久嶋河原合戦之時、被官両人鑓突云々、尤以忠節異于也弥可被戦功之状如件、文明十三年六月廿三日(花押)垣屋修理進殿
1480年(文明12年)9月8日には戦線が和久嶋河原へ移っていることから8月14日~9月8日の間に当城の落城が推定される。
和久嶋河原の明確な場所は不明だが小鴨川沿いの河原と推測されている。(和田史誌)
落城後の詳細は不明だが金地福山定光寺の境内に南条氏三代の宝篋印塔が祀られること、西側の連郭群が毛利氏(吉川氏)に対して増強された施設と仮定するなら南条氏が改易されるまで維持された可能性が推定される。
金地福山定光寺には山名氏之(沙弥源賛)の寄進状など中世文書が存在する。
金地福山定光寺は和田山の南側山麓に鎮座する。
1184年(寿永3年/元暦元年)の宇治川の戦いで戦功を挙げた佐々木高綱が1186年(文治2年)、長門国や備前国の守護職へ任じられた際に拝領した恩賞地の一つに伯耆国和田があり、この地に建立された律宗寺院が始まりとしている。
創建時に建立された場所は不明であるが、この律宗寺院が現在も字名に見える道和寺とされる。(和田史誌)
建久年間(1190年~1199年)に佐々木高綱が寺院を建立し玄賢律師が仏法を広めた道場であったが一時寂れ、山名氏之が明徳年間(1390年~1393年)に再興と伝える。
1392年(明徳3年)春、山名氏之が南条貞宗の二男、機堂長応(機堂禅師)を開山一世に招き禅宗寺院として再興とあるが金地福山定光寺の縁起では南条貞宗を開基、機堂長応を開山一世とし律宗から曹洞宗へ改宗とある。(金地福山定光寺略縁起)
和田史誌では律宗から禅宗に改めたのは加茂氏の子孫、南条沙彌(南条貞宗)としている。
1484年(文明16年)3月頃、尼子経久は沙彌となり金地福山定光寺の大拙和尚(四世)の元で修行とある。(和田史誌)
1574年(天正2年)、和田と下北条で喧嘩があったことが記されている。
1690年(元禄3年)、定光寺山の中腹に観音堂が建立される。
写 真
2019年11月10日、2019年11月17日