伯耆国 会見郡

あわしますいさい

粟嶋水塞

米子 粟嶋水塞

所在地

鳥取県米子市彦名町

城 名

粟嶋水塞(あわしますいさい)

別 名

粟嶋砦(あじまとりで)…「粟嶋」を「あじま」と略して呼称したとすることに因む。(伯耆志)

築城主

不詳

築城年

不詳

廃城年

不詳

形 態

水塞

遺 構

郭跡

現 状

粟嶋神社社叢、山林、干拓地

備 考

県指定天然記念物 昭和57年4月9日 ※粟島神社社叢として

縄張図

不詳

城 主

不詳

委細不詳。

参考資料(史料及び文献、郷土史など)

伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻三 大正5年9月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

粟嶋神社社伝

年 表

750年

天平勝宝2年

粟島の周辺に人々(漁民)が住み始めたと伝える。(粟嶋神社社伝)

1331年

元弘元年 / 元徳3年

山の麓に小さな社殿が所在したと伝える。(粟嶋神社社伝)

1332年

元弘2年 / 正慶元年

後醍醐天皇が海上安全を祈願とある。一説には自ら船を寄せ礼拝に参られたと伝える。

1520年

永正17年

尼子氏伯耆山名氏が夜見ヶ島周辺で争った際に社殿が焼失したとする。

粟嶋神社社伝では尼子氏毛利氏が戦ったとしているが時代が合わない。

1524年

大永4年

尼子氏の方く国への侵攻(大永の五月崩れ)により社殿が焼失したとする。

伯耆志では尼子経久による兵火で社殿が焼失とし、粟嶋神社社伝では尼子経久によってこの年に社殿が再建とある。

1607年

慶長6年

米子城の城主、中村一忠により粟嶋神社の社殿が再建され、25石7斗と一山竹木の全てを神領とする寄進を受けている。

1616年

元和2年

米子城の城主、加藤貞泰により粟嶋神社の社殿が再建とある。

1619年

元和5年

米子城の城主、池田由成より社領として12石5斗の寄進を受ける。

1630年

寛永7年

米子城の城主、池田由成により粟嶋神社の社殿が再建とある。

1648年

慶安元年

鳥取藩主、池田光仲により粟嶋神社の社殿が再建とある。

概 略

中海の海上往来を監視するため、洋上水塞群の一つとして現在の粟嶋神社が鎮座する粟島山(餘戸山、明神山とも)に城砦が所在し、岸壁や水辺には走舸(艇)や赤馬を係留するための船着場が存在したと推測される。

 

伯耆志 粟嶋村の条

村名の義下に見ゆ。土人或は略してアジマと呼ぶ。粟嶋は今社の在る山なり。上古は海中の孤島にて出雲に属す。故に出雲風土記意宇郡に「粟島有椎松多年木小竹眞崎木葛」と見へたり(略)何れの頃、当郡に属せしにや。寶暦の頃までは此地に一川ありて参詣の人、舟にて渡りしか故に三文渡しと呼ひしか(賃三銭にて渡りしなり)。新田墾発するに従ひ遂に陸地となりしと伝へり。(略)

 

伯耆志では出雲風土記からの引用として、往古は中海に浮かぶ孤島で出雲国意宇郡に属していたが何時の頃から会見郡に属したかを不明としている。

宝暦年間(1751年~1763年)の干拓事業によって伯耆側と陸続きとなるが、それまでは渡し舟でのみ参詣が可能であったとしている。

 

750年(天平勝宝2年)頃から島の周辺に人が住み始めたとされ、10件程度の漁民が村を形成していたと伝える。

 

1331年(元弘元年/元徳3年)頃には山塊北側の麓に小さな社殿が所在し、1332年(元弘2年/正慶元年)に後醍醐天皇が隠岐配流となった際は使者を遣わせ海上安全を祈祷したとされる。(一説には後醍醐天皇を乗せた船が直々に訪れ、礼拝を行ったとしている)

 

伯耆志 粟嶋村の条

粟島山の頂に在り。一山皆社地にして東西四十間、南北八十間許。樹木繁茂す。上る事二丁許なり。往古は山下に在りしを大永中尼子経久の兵火に罹り(後経久再建して御供田若干を附せしと云えり)。又、元禄中焼失す。社家議して今の所に遷すと云えり(略)。

 

1520年(永正17年)、尼子経久が弓ヶ浜で毛利軍と戦った際、兵火に遭い社殿が焼失したため1524年(大永4年)に尼子経久が社殿を再興したとしている。(粟嶋神社社伝)

但し、永世年間に弓ヶ浜(夜見ヶ島、餘戸濱)で争ったのは尼子氏伯耆山名氏であることから社伝は誤記或いは誤伝と考えられ、毛利方による兵火で焼失したとすることから尼子方に親しい記述となっている。

逆に伯耆志では尼子経久による兵火で焼失し、一帯を平定した後に社殿を再興し若干の供田を行ったとしている。

毛利氏吉川氏が領有した頃の記述は見えないが、中村一忠加藤貞泰池田由成など伯耆国米子城の城主や鳥取藩主の池田光仲より寄進や社殿の再建を受けたとしている。

 

1520年(永正17年)或いは1524年(大永4年)、1689年(元禄2年)、1922年(大正11年)12月20日と記録に見えるだけで社殿は3度~4度の火災に見舞われたと記されている。

 

記録には見えないが尼子氏毛利氏が山陰地方で覇権を競う頃は中海の水上交通を支配する上でも重要な地点あり、夜見ヶ島など弓浜部、粟島、萱嶋、松島、島田の半島部が直線で並ぶ当城砦周辺は特に重要な場所であったと推測される。

一部に誤記も見られるが粟嶋神社の社伝を頼ると社殿が兵火に遭い焼失した事が見えることから、中海水道の領有を巡り激しい争奪戦が繰り返されたと想像するに難くない。

 

人魚の肉に纏わる不老長寿の伝説、八百比丘尼の伝承が流布され伝えられる一考として漁民などを寄せ付けない意図も推測でき、水軍基地の隠蔽を図っていた可能性も伺える。

干拓によって往時の形状は不明だが、山塊の西側と南側に船着場の名残のような地形が見られる。

現地の調査や水軍の存在を伺わせる伝承など城砦に関する情報が不足しているため未解明な部分も多いが、波岩の一部に矢穴の痕跡が残ることから船着場や造船場など人工的な建造物の存在を伺わせる。

写 真

2019年6月9日

南西からの遠望

遠望

南東からの遠望

遠望

北東からの遠望

遠望

北からの遠望

遠望

粟嶋神社(粟島神社社叢)

粟嶋神社

粟嶋神社正面と麓の鳥居

粟嶋神社

本殿への参道(188段の急階段)

粟嶋神社

本堂への階段(上から)

粟嶋神社

階段の中ほどに踊り場

粟嶋神社

参道の途中から荒神宮

粟嶋神社

荒神宮の鳥居

荒神宮

荒神宮

荒神宮

参道の途中から荒神宮腹蛇神祠

荒神宮腹蛇神祠

荒神宮腹蛇神祠の入口

荒神宮腹蛇神祠

荒神宮腹蛇神祠への道

荒神宮腹蛇神祠

荒神宮腹蛇神祠付近の郭跡

荒神宮腹蛇神祠

山中荒神宮腹蛇神祠付近の帯郭の湧水

荒神宮腹蛇神祠

荒神宮腹蛇神祠

荒神宮腹蛇神祠

荒神宮腹蛇神祠付近の郭跡

荒神宮腹蛇神祠

荒神宮腹蛇神祠付近の郭跡

荒神宮腹蛇神祠

本殿の正門

本殿

本殿付近

本殿

本殿付近

本殿

遥拝所(伊勢神宮)

遥拝所

遥拝所(出雲大社)

遥拝所

参道西側の帯郭

帯郭

参道西側の帯郭

帯郭

本殿から南側へ

本殿南側

南側の郭群の通路は石段状

本殿南側

南側の郭群は岩肌が目立つ

本殿南側

南側の平坦部(遠見郭)

眺望

遠見郭から米子城方面の遠望

眺望

遠見郭から萱嶋

眺望

麓から萱嶋

遠望

遠見郭から安来方面の遠望

眺望

遠見郭から米子城方面

眺望

中海から米子城方面

遠望

南側の岸壁

南側岸壁

南側の岩礁

南側岩礁

麓の豊受宮

豊受宮

粟島神社境内

粟島神社境内

忠魂碑

忠魂碑

左が八百姫宮・右が大岩宮

粟島神社社叢

大岩宮と鳥居

大岩宮

大岩宮

大岩宮

大岩宮裏の波岩

波岩

西側麓の波岩

波岩

西側麓の波岩

波岩

西側麓の波岩(浸食か矢穴か不明)

波岩

西側麓の波岩を利用した通路

波岩通路

西側麓の矢穴(横向)のある波岩

波岩

西側麓の矢穴(横向)のある波岩

波岩

西側麓の矢穴(横向)のある波岩

波岩

西側麓の矢穴(縦向)のある波岩

波岩

西側麓の矢穴(縦向)のある波岩

波岩

静の岩屋付近

八百姫宮前

静の岩屋付近

八百姫宮前

八百姫宮

八百姫宮

静の岩屋

静の岩屋

静の岩屋

静の岩屋

静の岩屋付近から南側岸壁への道

八百姫宮前

南東へ少し離れた場所に祠

南東へ少し離れた場所に祠

米子城から粟嶋と萱島

米子城からの遠望

米子城から粟嶋と萱島

米子城からの遠望

写 真

2012年5月4日

南西からの遠望

遠望

粟嶋神社本殿

粟嶋神社本殿

静の岩屋付近

静の岩屋付近

静の岩屋付近

静の岩屋付近

八百姫宮

八百姫宮

八百姫宮

八百姫宮

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