よみがな
人物名
うまだ よしあつ
馬田慶篤
出身
不詳
生年
不詳
没年
1571年(元亀2年)
氏
源
姓
朝臣
名
馬田
通称
不詳
諱
慶篤
官途
不詳
別名
馬田入道慶篤(うまだ にゅうどう けいとく)
所属
尼子
列 伝
宇多源氏(隠岐佐々木流)を祖とする馬田氏の一族。
「隠なき驍勇」と剛力を称賛され、金熨斗(金の薄板を薄く延ばした熨斗板)で装飾された太刀や煌びやかな具足を身に着けるなど身なりも華やな人物であったとする。
1571年(元亀2年)2月7日、尼子残党が毛利方の伯耆国尾高城を奪取を目論み、麓の浄満原で合戦となる。(浄満原の戦い)
浄満原の戦いでは尼子方の大将であった平野久基が討死する。
平野久基らの仇討ちとして山中幸盛は軍団を率いて出陣すると、毛利方の尾高城からは迎撃のため杉原盛重が一千騎を率いて出陣している。
敵軍との距離が数十町(推定5~10Km程度)に近づいた頃、杉原盛重の軍団へ偵察として単騎で出陣している。
偵察を終え引き返す所を杉原盛重の部将、高橋資高に発見され戦闘となる。
高橋資高は博奕で負けたため愛刀を失っており、獲物は木刀のみであったが、これを隠すため刃先に袋を被せて偽装していたとしている。
この偽装には気付き、臆することなく木刀を掴み高橋資高を組み伏せたが、援けに来た杉原盛重の部将、壇上重行に斬りかかられ怯んだ所を高橋資高に逆転されると組み伏され、壇上重行によって首級を刎ねられている。
所持していた金熨斗の太刀や高価な鎧は全て高橋資高によって奪い取られ、博奕の原資になった顛末が伺える。
高橋資高は金品(金熨斗の太刀や鎧)を手にし、壇上重行は首級(手柄)を挙げる働きができたことにお互い笑って帰陣している。
天文年間(1532年~1555年)、尼子方の武将として佐川亀山城へ在番した馬田源兵衛尉や馬田四郎五郎は同族であろうとしている。(伯耆志)