伯耆国 日野郡

さがわ かめやまじょう

佐川 亀山城

鳥取県日野郡江府町佐川(小字上屋敷) 佐川亀山城

所在地

鳥取県日野郡江府町佐川(小字上屋敷)

城 名

さがわかめやまじょう

佐川 亀山城

佐川村への所在に因み亀山は旧称とする(伯耆志)

別 名

こまるやまじょう

小丸山城

所在する小丸山に因む

築城主

不詳

築城年

不詳

廃城年

不詳

形 態

山城

遺 構

郭跡(帯郭、腰郭)、堀切、空堀(横堀)、土塁、虎口、土橋

 

北側に土塁を配した犬走状の帯郭が見え、小丸山主郭の虎口へと繋がる

 

小丸山主郭から東側連郭群にかけて城砦の南側に小規模な郭が複数配置される

 

小丸山主郭の東西及び小丸山主郭と東側連郭群を断つ位置に配置される

 

東側連郭郡の南側に配置される形状から日野川からの敵襲に備えた横堀か

現 状

山林、水田、畑地、自動車専用道路(米子自動車道)

備 考

史跡指定なし

縄張図

城 主

尼子

伯耆志にて城主と伝える

伯耆志にて城主と伝える

永禄7年、伯耆江美城の戦いでは尼子方の援軍とする

参考資料(史料及び文献、郷土史など)

伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻四 大正5年10月 佐伯元吉)

伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻五 大正5年11月 佐伯元吉)

萩藩閥閲録(山田家文書)

鳥取縣神社誌(昭和9年12月 鳥取縣神職會)

日野郡史 前篇(昭和47年4月 日野郡自治協会)

江府町史(昭和50年12月 江府町史編さん委員会)

新修江府町史(平成20年6月 江府町史編纂委員会)

江府町の文化財探訪[第1集](平成元年3月 江府町文化財保護審議会)

新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ(平成24年6月 鳥取県神社誌編纂委員会)

年 表

1532年~1555年

天文年間

尼子方の武将、馬田源兵衛尉馬田四郎五郎の居城と伝える。(伯耆志)

佐川神社に対して馬田源兵衛尉より25石の寄進が行われる。(新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ)

1564年

永禄7年

9月6日(旧暦8月1日)

毛利方の軍勢を率いる杉原盛重らにより尼子方の伯耆国江美城が攻撃を受ける。

9月13日(旧暦8月8日)

江美城の城主であった蜂塚義光は一族とともに自刃し江美城は落城する。

馬田七郎右衛門尉が尼子方の増援に出陣するが毛利方の増援、山田満重に阻まれている。

※陰徳太平記などでは永禄8年(1565年)の出来事とする。

1580年

天正8年

播磨国三木城の落城に伴い別所氏の一族や家臣が伯耆国へと落延びてきたとある。

別所氏の家臣の中には天竺元氏の弟、住田久正が居たとあり、城主の馬田氏と評議し佐川八幡宮の宮司に命じている。(伯耆志)

1585年

天正13年

佐川神社に対して天竺元氏より社殿の造営及び75石の寄進が行われる。(鳥取縣神社誌)

1601年

慶長6年

6月20日(旧暦5月20日)

横田村詮から下安井の太郎左衛門へ宛て、佐川村と美女石村の境界を日野川岸と決める裁許状が発給される。

概 略

尼子方の武将であった馬田源兵衛尉馬田四郎五郎の居城と伝える。

別名に「小丸山城」とも呼称され、「亀山城」の名称は往古の呼称(旧称)としている。(伯耆志)

丘陵の小字名は「上屋敷」とあり、日野郡史では小字周辺を城跡と推定している。(日野郡史 前篇)

 

小丸山の北側から西側にかけてはハセン川、南側には谷山川が流れており何れも天然の川堀として利用したことが推測される。

北側の帯郭は長大ではあるが際立った防御施設は見られず、北岸側に土塁が配される程度の痕跡から山道など往来に利用されたことが伺える。

一方、南側の腰郭は細分化され、切岸や空堀を伴う構造から敵兵の分散と友軍の射角を確保する意図が見えるなど、南側からの侵攻に備えた縄張であったと考えられる。

往時は小丸山を含む東西に細長く延びる独立丘陵の山塊が城砦と推定されるが、米子自動車道の建設により丘陵中央部が削り取られ分断されているため、江府町の文化財探訪問<第1集>に掲載される縄張図は丘陵西側部分のみとなり米子自動車道以東の山中にも城砦に由来する遺構が残存する可能性がある。

 

伯耆志 佐川村の条 城跡の項

村の東三丁許に在り小丸山と呼ぶ。昔は亀山と云いて天文の頃、馬田源兵衛尉同四郎五郎在城せしと云伝う。元亀中、新山の尼子勢の中に馬田某あり。(尾高前市村の下に記す)この族にや。

 

天文年間(1532年~1555年)

馬田源兵衛尉馬田四郎五郎の在城を伝える。(伯耆志)

 

毛利元就書状 (山田家文書 新鳥取県史収録)

山田民部丞殿 元就

其表永々在番候て辛労之をこそ存候処。今度日野郡敵心付而心遣之段不及申候。雖然其方種々以短息気遣。馬田七郎右衛門尉引成。蜂塚要害切崩、則時被郡仕返候。粉骨之段、不知所謝候。連々付可有忘却候。猶、赤川十郎左衛門尉(就秀)可申聞候。 謹言。

(永禄7年)八月廿五日 山田民部丞殿 元就

 

1564年9月30日(永禄7年8月25日)

毛利方によって伯耆国江美城が攻撃を受けた際、馬田七郎右衛門尉蜂塚義光の援軍として登場するが山田満重の部隊によって撃退されたことが毛利元就からの感状に記されている。(萩藩閥閲録 山田家文書)

 

江美城の戦いの前後、当城の詳細は不明だが周辺の情勢から馬田七郎右衛門尉が出雲国月山富田城など遠方からの増援であったとは考え難いため、馬田源兵衛尉らと当城に在番し尼子方に与していたと推測される。伯耆国では尼子方の城砦が次々と落城する中、当城は江美城の落城前後も健在であったことが伺える。

伯耆民談記では江美城に向かう杉原盛重の部隊の進軍を安国寺祖権らが妨害したため、江美城の落城後、伯耆国尾高城への帰陣の際、杉原方の部隊によって安国寺が焼き討ちに遭い灰塵に帰したとあるとから当城も制圧された可能性が高いと考えられる。

但し、天正年間にも城主として馬田氏馬田四郎五郎か)の存在を伝えることから江美城の落城後は速やかに降伏したとも推測される。

 

伯耆志 尾高前市村の条 城跡の項

(略)元亀二年二月七日、尼子方平野加兵衛久基、新山城より出て尾高の麓なる浄満原に押寄せ民家に火を放て乱妨す。

(略)山中鹿介は平野が討たれる由聞て可惜兵を失いたり。いざ尾高に働きて彼が供養せんとて横道源介、同権允、森脇市正等を催し都合一千五百余騎、新山を打て出、尾高に向い押掛れば盛重一千余騎にて打出たり。其間数十町なる時、寄手の中に馬田入道慶篤と云う者あり。隠なき驍勇なりけるか唯一騎馳出、杉原の陣を物見して引取らんとす。杉原の兵、高橋右馬允資高、是を見て此頃博奕に負たる故に今日は木刀に袋を懸て出たり。馬田は金熨斗付の太刀を佩けりと見ゆ。人は首を取る事を好む。吾は太刀を取らんとて追蒐くれば壇上監物重行、さらば吾は首を取らんとて続て馳出けり。高橋木刀を打振て馬田返せと聲を懸くれば刀を抜て待懸かたり。馬田、高橋が木刀を見て只一打と打懸るを、高橋手早き男にて脇につと入りて太刀の柄を執らえたり。馬田、高橋を取て押伏せんとするに壇上駈寄て馬田を二刀刺す。刺されてひるむ所を高橋押返せば壇上首を掻く。高橋、太刀鎧悉く剥取て又博奕を催すべしと云えば壇上は能き首取りたりと互に笑て引にけり。(略)

 

1571年3月2日(元亀2年2月7日)

浄満原の戦いで尼子方の武将として登場する馬田慶篤は当城の城主、馬田源兵衛尉馬田四郎五郎の一族としている。(伯耆志)

 

新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ 佐川神社の条

亀山城主、馬田源兵衛尉より社高二十五石寄進あり。天正十三年美女石城細川天竺三郎治郎、宏荘なる社殿を造営し社領七十五石寄進せしこと棟札に見ゆ。

 

佐川神社の社伝では馬田源兵衛尉から25石の寄進があったことを記録している。

 

1585年(天正13年8月)

天竺元氏による社殿造営と75石の寄進を受けており、尼子氏から毛利氏へと支配勢力が変わっても佐川神社が厚く保護されていたことを伺わせる。

 

伯耆志 佐川村の条 神主住田氏の項

細川氏の裔にて天竺三郎二郎元氏の弟、住田甚兵衛尉久次を祖とす。天竺は伊豫の地名にて(古今著文集十二の巻に後鳥羽院御時伊豫国大寺の島と云う處に天竺の冠者というものありけり云々と見えたり。これ天竺という地に生まれたる人なるべし)天竺以住の人々其所に住居せし趣なり。応仁記舟岡山合戦の下に云々(略)天正元年、当郡美女ノ石城に転移す。(宮原村久連村の下見合すべし)上に挙る八幡宮は元氏の草創にて当時七十五石の社領を附す。同八年、播磨国三木ノ城主、別所長治滅亡の後、其の臣、住田帯刀勝久の長子久正(別所長治記播州征伐記等には見えず)来て会見郡岸本村に居る。(会見郡吉定村瑞応寺の伝に別所長治日野郡別所村に居りし事ありと云えり。別所村は吉定村に相接して岸本村に遠からず。実にさる所縁などありて住田氏も岸本村に来りしにや猶考うべし)当村亀山城馬田氏議して久正を八幡宮の社司とす。通称を宮代と云えり。久正三十三歳にて死す。継嗣無きを以て天竺元氏の弟久次家を続くと云えり。此の後、何の頃歟、元氏又備中軽尾城に帰る(天正十年と云えり)期に臨み長船忠光の刀并系図一巻を久次に與うと云えり。

 

1573年(天正元年)

備中国軽尾城から天竺元氏が伯耆国美女石城へと転移する。(伯耆志)

 

1580年(天正8年)

播磨国三木城の落城に伴い別所氏の一族や家臣が伯耆国へと落延びてきたとある。

落延びた別所氏の家臣の中には住田久正が居たとあり、長子の住田久次天竺元氏の弟としている。

城主の馬田氏馬田四郎五郎か)と評議し住田久正を佐川八幡宮の宮司に任じている。

 

1582年(天正10年)

天竺元氏は再び美女石城から軽尾城へと転移する。(伯耆志)

 

伯耆志 佐川村の条 小祠 四の項

村の東、東西十六間、南北十二間の平地にあり。天正十三年八月の棟札あり。本願将更に天竺三郎二郎源元氏、神主住田甚兵衛尉久次とあり(仔細下に記す)。新八幡と称する小祠あり。往古此の地の城址にありしを中古今の地にうつすと云えり。下に挙る馬田四郎五郎の霊社なりとぞ。小祠 十三。

 

鳥取縣神社誌 佐川神社の条

(略)天正十三年、美女石城細川天笠三郎治郎、宏荘なる社殿を造営し社領高七十五石寄進せしこと棟札に見ゆ。寛文年中、社殿焼失古書類宝物等を失う。(略)

 

1585年(天正13年)

鳥取縣神社誌では天竺元氏により佐川神社の造営と75石の寄進が行われたとするが、佐川村は馬田氏馬田四郎五郎か)の知行と考えられる。(鳥取縣神社誌(佐川神社の条)

 

1585年(天正13年8月)

伯耆志では天竺元氏を願主、住田久次を神主として城内に鎮座した八幡宮を佐川村の東に移し、新八幡と呼ばれたとある。住田久正が社司を務めた八幡宮は馬田四郎五郎の霊社と伝えており、馬田四郎五郎の存命中は美女石村と佐川村の関係は落ち着いていたものと考えられる。

天竺元氏の退去、馬田四郎五郎の没後から美女石村と佐川村は日野川の利水を巡る権利関係などで対立するようになり、この頃から争論が絶えなかったとされる。

 

横田内膳正村詮裁許状

巳上

下安井之内美女石従佐川論地之由候 境目者日野河切申付候間巳来可或其意者也

内膳正村詮  丑 五月廿日  下安井役人 太郎左衛門

 

1601年6月20日(慶長6年5月20日)

中村一忠による伯耆国の統治が始まると渡久兵に対し両村の住民が美女石村と佐川村の村境に係る裁許を願い出ている。

渡久兵からは納得のいく裁許が得られなかったことから中村家の執政家老、横田村詮は下安井の太郎左衛門へ宛て、佐川村と美女石村の境界を日野川岸で区切るとする裁許状を発給している。

写 真

2022年1月10日

美女石城からの遠望

東側遠望

南東からの遠望

南東側遠望

谷山川の北岸

谷山川北岸

谷山川の南岸

谷山川南岸

ハセン川の南岸

ハセン川南岸

西の堀切

西堀切

西の空堀

西空堀

西の空堀

西空堀

西の尾根先

西尾根先端

西端の郭跡

西端郭跡

主郭西側の腰郭

主郭西腰郭

主郭西側の腰郭

主郭西腰郭

主郭西側腰郭から空堀

西腰郭空堀

主郭から主郭西側腰郭

西腰郭空堀

主郭の西端

主郭西端

主郭(古墳西側の石室)

主郭

主郭(古墳西側の石室)

主郭

主郭の切岸(古墳の境界)

主郭切岸

主郭(古墳東側の石室)

主郭

主郭(古墳東側の石室)

主郭

主郭(古墳東側の石室)

主郭

主郭東側

主郭東側

主郭東側

主郭東側

主郭東側

主郭東側

主郭東端の土塁

主郭東土塁

主郭東端の土塁

主郭東土塁

主郭東端の土塁と堀切

主郭東堀切

主郭東端の土塁と堀切

主郭東堀切

主郭東端の土塁と堀切

主郭東堀切

主郭東端の土塁と堀切

主郭東堀切

堀切の北側はなだらかに続く

堀切北側

堀切の南側は横堀へ続く

堀切南側

堀切の南側は横堀へ続く

堀切南側

南側横堀の切岸

南側横堀

主郭と東郭群を隔てる堀切

主郭東堀切

主郭と東郭群を隔てる堀切

主郭東堀切

主郭と東郭群を隔てる堀切

主郭東堀切

主郭と東郭群を隔てる堀切の土塁

主郭東土塁

主郭と東郭群を隔てる堀切の土塁

主郭東土塁

東郭群

東郭群

東郭群と腰郭

東郭群

東郭群

東郭群

東郭群腰郭の空堀跡

東郭群空堀

東郭群と土塁

東郭群土塁

東郭群と土塁

東郭群土塁

南側の腰郭群

南腰郭群

南側の腰郭群

南腰郭群

米子自動車道との境界

自動車道境界

北側の腰郭(帯郭)

北腰郭

北側の腰郭(帯郭)

北腰郭

北側の腰郭(帯郭)

北腰郭

北側の腰郭(帯郭)

北腰郭

北側の腰郭(帯郭)

北腰郭

北側の腰郭(帯郭)の土塁

北腰郭土塁

北側の腰郭(帯郭)の土塁

北腰郭土塁

Page Top