伯耆国 会見郡
てんのうばらきょかん
天王原居館
所在地
鳥取県西伯郡南部町市山(字羽根ヶ崎)
城 名
天王原居館(てんのうばらきょかん)
別 名
天王原居館(てんなばらきょかん)…「21世紀へ語り継ぐ 市山区史」の古老への聞き取りにのみ登場する呼称。
築城主
不詳
築城年
不詳(奈良時代頃と推定される)
廃城年
不詳
形 態
丘城、居館
遺 構
郭跡、切岸
現 状
畑地、果樹畑
備 考
史跡指定なし
縄張図
天王原遺跡発掘調査報告書 付図 天王原遺跡群調査区全体図に調査範囲の図示あり。
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻二 大正5年8月 佐伯元吉)
天王原遺跡発掘調査報告書(1993年 会見町教育委員会)
天王原遺跡発掘調査報告書 付図 天王原遺跡群調査区全体図(1993年 会見町教育委員会)
会見町誌(昭和48年11月 会見町誌編さん企画委員会)
会見町誌 続編(平成7年10月 会見町誌編さん企画委員会)
会見町誌 完結編(平成16年9月会見町誌完結編編纂委員会 )
21世紀へ語り継ぐ 市山区史(平成15年11月 市山区史編集委員会)
概 略
1842年(天保13年)の絵図に見える字「羽根ヶ先」に所在した居館跡と伝わる。
台地の東から北へと流れる朝鍋川を天然の川堀として、南には伯耆国小松城を防衛の拠点として配したと推測される。
伯耆志では朝鍋川を越えた東の網平村(縄平)が東南に対する空堀を残し、萩名村には尼子氏の臣が在城したとすることから会見郡の製鉄や流通を掌握する要地として認識されていたことが伺える。
調査報告書や郷土史料では表採資料から奈良時代頃には天王原に於いてたたら製鉄が始められていたとし、平安時代から鎌倉時代にかけて鉄の生産に関わる山城が出現したと伝える。
関係する周辺の山城には伯耆国朝鍋城、伯耆国大谷山城、伯耆国宮谷城を挙げているが用途の記述はなく、砂鉄採取など生産拠点なのか産出した資源や生産された製品を守るための軍事拠点なのか詳細は不明。
居館は生産された鉄製品の流通を掌る一族が居住したと推測されている。
居住部は政庁を兼ね、周辺に築かれた山城群の配置は古代中国の寿春の都に酷似するとされ、中国大陸の戦乱から逃れた渡来人による設計とする説もある。
鉄製品の他、薬学の知識や薬草、薬品の流通も行われていたことが出土品から考察されている。
当地に於ける鉄製品の流通は14世紀頃まで続いたとされるが、1336年(建武3年 / 延元元年)には出雲国造軍による侵攻を受け小松城が落城する。
小松氏の没落と時を同じくして同時期の遺物が一時出土しなくなる。
遺物が小松氏の滅亡と同時期に姿を消すことが小松氏の拠点であったとする説を補強する状況証拠のひとつとして考えられている。
居館の推定地として天王神社から東側の斜面に一辺60m程度の方形館が16世紀から17世紀にかけ存在したとされる。
天王神社は調査報告書に祇園神社とあり、現在は鳥居の扁額(神額)に山平神社とあることから近年改称されたようである。
16世紀前期は小松城に佐々木伊予守が在城、萩名村に尼子氏の臣が在城とあるため伯耆山名氏或いは尼子氏が、16世紀後期は毛利方の馬屋原氏が周辺を治めている。
似た構造を持つ居館として宮前の代官屋敷と鶴田集落に所在した居館跡が挙げられている。(市山区史)
明治時代の中頃までは麦や朝鮮人参、養蚕のための桑などが栽培された畑地であったが、明治20年代後半には畑地や原野を水田化するための発議が行われ、1900年(明治33年)10月より起工し、暫くの後に天王原新田への整備が完了したとされる。
1990年(平成2年)より天王原新田の再整備が行われ、この時に発掘調査が行われている。
記念碑には1996年(平成8年)頃に再整備が完了したとされ、明治時代の水田への改変から平成の再整備を経て畑地や果樹畑が混在する形になったことから往時の遺構や残存状態は不明とされる。
天王原新田再整備記念碑
写 真
2019年6月1日、2020年2月28日