最 新 情 報
2022/07/02
米子城と皆生温泉を紹介するパンフレットが出来上がりました!
これを読めば米子城と皆生温泉の歴史について”ほんの少しだけ”詳しくなれる(かもしれない)PRパンフレットを方々の協力を得て制作しました。
米子城と皆生温泉が歴史で繋がることにピンと来ない方が大半と思いますが、実は吉川広家が伯耆国の統治を認められていなければ「皆生(海池)」の地名は誕生していなかった可能性があったりなかったり…など、米子旅行のみやげ話の一助になれば良いなと思い原稿を作らせて頂きました。
興味を持たれた方はお近くの施設で手に取って頂けると幸いです。
(配布施設と制作の裏話)(配布場所一覧)
2022/06/08
【 伯耆古城図録(倉吉市篇) 】三江城※加筆修正+写真追加
高城城の支城と伝わる以外は詳細不明。
近くには捷号作戦による本土決戦を意識した「ち号演習」の痕跡と伝える洞穴跡が遺されています。
(鳥取県倉吉市三江)
【 武将列伝更新 】
国府伯耆守親俊…高城城の城主とする人物。名が「国府」「国司」「国造」と書籍によって表現がまちまちで、それぞれ別人で考えないといけない気もしますが…どの書籍も諱以外の詳細は不詳。一説には南条虎熊(南条宗勝の幼名)と同一人物とも伝えています。
2022/04/19
【 武将列伝更新 】
馬田源兵衛尉…伯耆佐川亀山城の城主とする人物。佐川神社へ25石を寄進したとするのみ伝わります。
馬田四郎五郎…伯耆佐川亀山城の城主とする人物。伯耆根雨城の城主にも同名の人物が伝わります。
馬田七郎右衛門尉…永禄7年(1564年)8月、江美城の戦いでは援軍として登場するも山田満重によって撃退されています。
馬田入道慶篤…元亀2年(1571年)、毛利方と尼子残党による浄満原の戦いに登場します。坊主なのに拝金主義だったのか…黄金装備を身に纏って偵察に出たところ(そりゃ見つかる)を敵に見つかり、装備一式は高橋資高に奪われ、首級は壇上重行に挙げられた挙句、両名ホクホクの笑顔で帰っていったという散々な結末を迎えます。
2022/02/03
【 伯耆古城図録(境港市篇)更新 】外江城
萩藩閥閲録では天正年間、奈佐日本介が外江村に逗留し練兵(恐らく水軍)を行ったとしています。
往時はまだ弓浜半島が存在しておらず、中海に浮かぶ小島のひとつであったと思われますが、陰徳太平記では永禄年間より毛利方の雲伯の主要な軍港として出雲国の福良山とセットで度々登場します。
残念ながら城跡の候補と考える推定地の全てに遺構は見られず、字名から痕跡を辿ることも難しい城跡となっています。
(鳥取県境港市外江町、鳥取県境港市渡町、鳥取県境港市芝町)