最 新 情 報
2023/01/24
【 伯耆古城図録(倉吉市篇) 】大谷城
城歴は一切不明ですが、光源院文書では大谷村に関する記述が幾つか見られます。
内容を辿ると伯耆山名氏(山名氏之)が統治する頃に出現する保国寺との繋がりが考えられ、瀑岩等紳や惟高妙安など広徳軒に関係する僧へ寺領として寄進されていきます。
後に毛利氏へと与した南条宗勝の実効支配となりますが、光源院領の寺納分(年75石)を幾年に亘り毛利方へ上納していないことが問題となり、時の将軍であった足利義昭からも催促が来る始末となります。
結局、南条氏から寺納分が上納されることなく毛利氏と南条氏の対立が決定的となり、吉川氏は実質的に保国寺領を治めていた奥上忠兵衛尉に対して「南条は無視していい。所領の自由な統治を認める。好きにやれ」と、南条氏からの離間工作が行われていた描写などが読み取れます。
現存する遺構からは天正年間に吉川氏と南条氏の双方から改築を施された城砦であることが推定され、現地で攻防戦が行われたことを物語ります。
(鳥取県倉吉市大谷 / 鳥取県倉吉市上神)
2023/01/08
打吹城の本丸から西側へ約36メートル下がった場所に所在したと伝える二ノ丸です。
伯耆民談記には城名を築城主に因んだものではなく、1585年(天正13年)頃に八橋城の城主であった南条元信が倉吉へと移り、当城に居住したことに因んだものとしています。
小鴨丸と同様に凡その規模が記されていますが、こちらも戦時中の「ち号演習」の影響を受けていることが判っています。
(鳥取県倉吉市仲ノ町)
2022/12/14
打吹城の本丸から20メートルほど北へ下がった場所に所在したと伝える出丸です。
天正年間、南条元忠が南条家の家督を継いだ際、小鴨元清が後見役に任じられた頃の築城と考えられ、打吹山の山塊に所在する施設としては一番新しい城砦施設となります。
伯耆民談記にも凡その規模が記されていますが、戦時中には「ち号演習」、21世紀に入ってからでも2度の地震の影響を受けていることが判っている上、藪で隠れているため一番の見所とされる畝状竪堀群もなかなか確認が難しいです。
(鳥取県倉吉市仲ノ町)
2022/12/04
【 伯耆古城図録(倉吉市篇) 】赤磐城
詳細は不明。本当に情報が見つかりません…。
城域の大部分が八幡町に属しますが伯耆民談記には留海村が見え、村名に因んで富海城と言うこともあるとか。
打吹城の支城と考えられる城砦ですが、一考には四十二丸城の属城とも推測されます。
往時は赤岩山景雲寺という寺院が存在したこと、字名が赤岩であることから「赤岩城」の方が自然なのですが、何故か赤磐城と表記される謎の多い城跡です。
(鳥取県倉吉市八幡町、鳥取県倉吉市富海)
2022/09/29
【 伯耆古城図録(倉吉市篇) 】高城城
国府親俊の居城。
大永の五月崩れでは一戦もせずに落城したことから「唯落の城」という蔑称の方が有名な城跡です。
高城山の山頂を主郭として、山塊はもちろん南北の谷すら越えて城域に取り込む程の巨大な山塞です。
規模に対して遺構の密度はそれほど高くはありませんが、城域の範囲だけを見れば伯耆手間要害に匹敵する広さを誇ります。
南側(市道福谷線の脇道)からは主郭に続く登山道が整備されているので比較的楽に踏破できる山城です。
(鳥取県倉吉市福富、同福積、同上福田、同沢谷、同服部 他)
2022/07/02
米子城と皆生温泉を紹介するパンフレットが出来上がりました!
これを読めば米子城と皆生温泉の歴史について”ほんの少しだけ”詳しくなれる(かもしれない)PRパンフレットを方々の協力を得て制作しました。
米子城と皆生温泉が歴史で繋がることにピンと来ない方が大半と思いますが、実は吉川広家が伯耆国の統治を認められていなければ「皆生(海池)」の地名は誕生していなかった可能性があったりなかったり…など、米子旅行のみやげ話の一助になれば良いなと思い原稿を作らせて頂きました。
興味を持たれた方はお近くの施設で手に取って頂けると幸いです。
(配布施設と制作の裏話)(配布場所一覧)
2022/04/19
【 武将列伝更新 】
馬田源兵衛尉…伯耆佐川亀山城の城主とする人物。佐川神社へ25石を寄進したとするのみ伝わります。
馬田四郎五郎…伯耆佐川亀山城の城主とする人物。伯耆根雨城の城主にも同名の人物が伝わります。
馬田七郎右衛門尉…永禄7年(1564年)8月、江美城の戦いでは援軍として登場するも山田満重によって撃退されています。
馬田入道慶篤…元亀2年(1571年)、毛利方と尼子残党による浄満原の戦いに登場します。坊主なのに拝金主義だったのか…黄金装備を身に纏って偵察に出たところ(そりゃ見つかる)を敵に見つかり、装備一式は高橋資高に奪われ、首級は壇上重行に挙げられた挙句、両名ホクホクの笑顔で帰っていったという散々な結末を迎えます。
2022/02/03
【 伯耆古城図録(境港市篇)更新 】外江城
萩藩閥閲録では天正年間、奈佐日本介が外江村に逗留し練兵(恐らく水軍)を行ったとしています。
往時はまだ弓浜半島が存在しておらず、中海に浮かぶ小島のひとつであったと思われますが、陰徳太平記では永禄年間より毛利方の雲伯の主要な軍港として出雲国の福良山とセットで度々登場します。
残念ながら城跡の候補と考える推定地の全てに遺構は見られず、字名から痕跡を辿ることも難しい城跡となっています。
(鳥取県境港市外江町、鳥取県境港市渡町、鳥取県境港市芝町)