伯耆国 久米郡

やまなうじとよやかた

山名氏豊館

倉吉 山名氏豊館

所在地

鳥取県倉吉市東町

城 名

山名氏豊館(やまなうじとよやかた)

別 名

一夜屋敷(いちややしき)…山名氏豊が居館とするが一夜にして出陣したことに因む。(伯耆民諺記・伯耆民談記)

 

一夜屋敷八幡(いちややしきはちまん)…鎮守の社を八幡宮と称したことに因む(伯耆民諺記・伯耆民談記)

築城主

伯耆山名氏山名氏豊

築城年

1393年(明徳4年)…伯耆山名氏の守護所が所在したと推定。

 

1400年前半(15世紀前半)…当時の富裕層の屋敷があったと推定。

 

1573年~1580年(天正年間)…山名氏豊の居館が所在したと推定。

廃城年

1580年(天正8年)8月…山名氏豊の戦死後、兵火に遭ったと記述が見える。

形 態

単濠単郭式居館(平城)

遺 構

郭跡、土塁、堀、切岸

※遺構は埋め戻しのため目視不能。堀は北側の玉川が名残とも伝える。

現 状

萬祥山大岳院

備 考

史跡指定なし

縄張図

城 主

伯耆山名

伯耆山名

明徳4年に守護所が置かれた場所のひとつであった可能性があり一族の居館と推測される。

城 主

毛利

天正年間に山名氏豊の居館とされる。

城 主

南条

天正年間に山名氏豊の居館とされる。

参考資料(史料及び文献、郷土史など)

伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)

伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)

伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)(昭和35年3月 印伯文庫)

因伯叢書 第二冊(昭和47年2月 佐伯 元吉)

倉吉市誌(昭和31年10月 倉吉市誌編さん委員会)

倉吉市史(昭和48年11月 倉吉市史編纂委員会)

新編倉吉市史 第二巻 中・近世編(平成7年3月 新編倉吉市史編集委員会)

新鳥取県史 資料編 近世Ⅰ 東伯耆(平成24年3月鳥取県立公文書館県史編さん室)

年 表

1393年

明徳4年

山名氏之が伯耆国の守護職を引き継いだ頃、守護所が置かれた場所のひとつと推測される。

1400年前半頃

15世紀前半頃

発掘調査から当時の富裕層の屋敷があったと推定されている。

1562年

永禄5年

この頃、毛利氏に属した山名氏豊が伯耆へ帰国したとされる。

1573年~1580年

天正年間

南条氏に属した山名氏豊が居館を構えたとされる。

居る事一夜にして出陣したことから「一夜屋敷」とも伝える。(伯耆民諺記・伯耆民談記)

1580年

天正8年

8月12日、山名氏豊が旧臣と600騎を率いて出陣。

8月13日、山名氏豊は吉川勢との戦闘に敗れ敗走。

8月15日頃、山名氏豊は鳴滝村付近にて殺害され、山名氏豊の戦死後に居館は兵火に遭ったと記述される。(伯耆民諺記・伯耆民談記)

概 略

萬祥山大岳院の本堂付近に山名氏豊の居館が所在したと推定されている。

規模は40間(約72m)四方、堀を以って囲み土手(土塁)を巡らせた単濠単郭式の城構えと伝わる。

居館を囲む土塁及び堀の遺構は消滅しているが、北側を流れる玉川の岸が堀の名残、土手が土塁や砦の一部であったとも考えられている。

 

1992年(平成4年)、萬祥山大岳院の本堂改築に際して倉吉市教育委員会によって発掘調査が行われ、中世の遺構とする掘立柱建物跡14棟、溝状遺構5条、土壙(土坑)、井戸跡が検出されている。

出土した遺物に青磁、青白磁、白磁、朝鮮系白磁、備前焼、瀬戸焼、唐津焼、土師質土器などが見られることから、当時の富裕層が居住した屋敷跡と推定され、伯耆山名氏の守護所跡とする説も見える。

但し、検出された遺構は山名氏豊の居館が所在した天正年間の物ではなく、天正年間より以前の15世紀前半頃の遺構と推定されている。

遺構の上面には焼土(焦土)層が確認されたとあり、伯耆民談記などに記述の見える山名氏豊の戦死後、兵火に遭った痕跡とも推測されている。

 

伯耆民談記 巻之第九 大嶽院の条

当寺は天正の頃、山名小三郎氏豊の館地なり。氏豊滅びて後は田園荒廃しけるに、中村伊豆守高閣を建立し今に盛んなる禅林なり。境地方四十四間、廻りは大藪にして切岸の土居なり。誠に要害堅固にして小城とも謂うべし。鎮守の社は八幡宮なり。俗に一夜屋敷八幡といふ。是は山名氏豊此地に館を構え、居る事一夜にして出陣し、因州鳴瀧という所にて落命す。されば右の如く称するとかや。(略)氏豊戦死の時、館には敵兵乱れ入り悉く放火す。

 

伯耆民談記 巻之第十四 倉吉城の事の条

大永四年五月崩れに尼子経久が為に攻落され累代の名家此時に断絶す。入道浪人となりて親族の方へありしか。其の子小三郎氏豊も所々流浪し芸州の毛利家に便り。永禄の末、当国へ帰入し本城に還住しける。餘勢もなく、倉吉の邊りに僅かなる館舎を経営し、羽衣石の南条元続の旗下となりて有りけるが村民は猶も屋形と称し敬意を表はしけり。

 

伯耆民談記(巻之第9)、伯耆民諺記(巻之第11)では居館(大嶽院)について、伯耆民談記(巻之第14)では山名氏豊についての記述が見える。

 

新鳥取県史 資料編 近世Ⅰ 東伯耆 大岳院由来の条 横田内膳宅之事の項

内膳開基之妹也。横田内膳殿内儀、米子城中村伯耆守後見職也。城内之内膳丸而、元和二年三月廿九日逝去也。

 

新鳥取県史では大岳院の由来に横田村詮の妹や妻の存在が記されているが関係は不明。

横田村詮の妻が中村一忠の後見役のひとりであったこと、1616年5月14日(元和2年3月29日)に米子城内の内膳丸で亡くなっていることが記される。

 

1992年(平成4年)に行われた倉吉市教育委員会による発掘調査は大岳院の敷地内のみであるが、周辺は富裕層の屋敷が軒を連ねたとされ、居館に関する遺構の範囲に関しても周辺住宅地に及ぶと推定されている。

出土物から守護所跡とも推定され、境内には里見忠義と彼を追い殉死した八賢士と呼ばれる8名の家臣の墓があり、南総里見八犬伝の元になったとも伝える。

境内には大江磐代の母「お林の方」の墓や8体の犬の石像などが鎮座する。

写 真

2015年4月5日

萬祥山大岳院

萬祥山大岳院

萬祥山大岳院の山門

萬祥山大岳院

萬祥山大岳院の本堂

萬祥山大岳院

萬祥山大岳院の鐘楼門

萬祥山大岳院

里見家墓所

萬祥山大岳院

猪の目

萬祥山大岳院

大江磐代の母「お林の方」の墓

萬祥山大岳院

南総里見八犬伝に因み八体が境内に所在

萬祥山大岳院

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