伯耆国 会見郡
こたかじょう かしおとりで
小鷹城 柏尾砦
所在地
鳥取県西伯郡南部町福成
城 名
小鷹城 柏尾砦(こたかじょう かしおとりで)
別 名
墓場城(はかばじょう)…由来不詳。福田正八幡宮の相見氏より伺う。
第二城(だいにじょう)…伯耆国米子城の隠し城とする伝承に因む。
築城主
不詳(吉川広家とする説もあり)
築城年
不詳(天正年間と推定される)
廃城年
不詳
形 態
平山城
遺 構
郭跡、堀、石垣、井戸跡
現 状
福田正八幡宮、山林
備 考
史跡指定なし
縄張図
不詳
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻二 大正5年8月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
会見町誌(昭和48年12月 会見町誌編さん委員会)
会見町誌 続編(平成7年10月 会見町誌編さん企画委員会)
戦国動乱期の伯耆-その戦乱の跡をたどる-(2007年11月 米子市立山陰歴史館)
福田正八幡宮の栞
相見家と庭園
年 表
不明
創立は不明であるが稲田姫命を祀った福田ノ社があり、福貴幸福の神として地名を福田保(庄)とする。
1190年頃
建久年間
源頼朝の伯耆国に勧請せる八幡宮として「福田ノ庄ノ大社、正八幡宮」と称し、福田庄は500石の神領と13ヶ寺の新宮寺を領したとされる。
戦国時代
当地を領有した勢力が移り変わる度、角遂の難に遭い社殿は荒廃したとある。
1590年
天正18年
伯耆国米子城の城主、吉川広家より社領553石の加増寄進が行われ本殿が再建されたとする。
本殿再建と併せて上方からの侵攻による米子城の落城時を想定し、出雲国月山富田城への退路を確保するための砦が秘密裏に建造されたと伝える。
この後、幕末まで周防国岩国城主の吉川家より銀幣の奉饌が行われた。
江戸時代
因伯初代藩主、池田光政より八棟造神輿が寄進された。
1868年
明治元年
太政官布達(神仏判然令)神祇官令によって「神田神社」と改める。
1979年
昭和54年
「福田正八幡宮」と旧称に復する。
概 略
現在の福田正八幡宮を中心として伯耆国米子城の隠し城として建造されたと言い伝えられる。
隠し城とされる性質上、城に関する情報は長く秘匿されていたとする。
当時の旧街道跡とされる鳥居から続く道に隣接する高台には矢場が配されていたと伝わる。
境内の郭跡には部隊を収容するための広い空間が設けられていたとされ、現在も名残が残るとされる。
社務所や社殿は兵の詰め所も兼ねていたと伝わり、社務所南側にある畑地は昭和の始め頃までは腰まで沈む沼地であったとする。
米子城から当砦までは最短の隠し道が山道に存在したとされ、米子城が落城した場合は代替拠点として機能するよう設計がなされており、更に当砦も落城し兼ねない事態となった場合は城主が速やかに本拠地である出雲国月山富田城へ退却できるよう、当砦から伯耆国新山要害を通り広瀬へ抜ける隠し道も存在したと伝える。
当砦より200mほど南には伯耆国小鷹城が所在する。
米子城の築城では小鷹城の天守建物が移設されたという説(伯耆国尾高城を指すとする説あり)も存在することから、米子城の代替城とされたのは小鷹城で、当砦は城域内に所在した出城の一つであったとも考えられる。
毛利氏と尼子氏が西伯耆で覇権を争った時代の会見郡は激戦の地であり、山々には両陣営の砦(固屋)が無数に存在したことが文献から散見でき、その砦群の中でも特に重要な砦のひとつであったと推測される。
江戸時代、福田正八幡宮の社務所前の門は常に開けられていたと伝える。
福田正八幡宮の敷地内は天領地であり藩主の影響力も及ばないことから藩などから追われた者が援けを求めた際の救済措置のためであったとも伝える。
写 真
2013年6月16日