所 属

稲井瀬

佐々木

よみがな

人物名

いないせ ごろうさぶろう ひろよし

稲井瀬五郎三郎弘義

官 途

不詳

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

1333年(元弘3年/正慶2年3月)

不詳

不詳

弘義

列 伝

鎌倉時代に伯耆国稲吉村周辺を治めた在地土豪、稲井瀬氏の一族。

「稲井瀬」は地名の「稲吉」から名乗ったとされる。

名和長年とは不仲であり、伯耆之巻からは一方的に名和氏を嫌っていた描写が見える。

 

伯耆之巻 「群書類従所収」

稲井瀬五郎三郎弘義、加茂の梶岡入道此等が許へ行て云可き様は隠岐の帝の御供申て船上山へ籠候。主上の御方に参給へ。(略)人は驕ぬれば思間敷事を思ふものなり。餘に我身の手柄を頼み、人を人とせずして近国の人をも賤しみしが滅びんずる瑞相也。忍て急帰れ。

 

1333年(元弘3年/正慶2年)

後醍醐天皇を迎えた名和長年から後醍醐天皇方に与するよう名和基長の使者、中間藤七郎から勧誘を受けるが断っている。

その後、佐々木清高の求めに応じ鎌倉幕府方の武将として船上山の戦いへ参戦している。

伯耆之巻では中間藤七郎が加茂郷の梶岡入道の説得後に立ち寄ったとしている。

中間藤七郎の誘いに対しては名和氏の驕りを嫌悪し拒絶している。(伯耆之巻 「群書類従所収」)

 

伯耆之巻 「群書類従所収」

隠岐の帝をば奈和庄地頭村上又太郎長高が取奉て船上山に楯籠候。彼等が手柄の者、其上一族多く候也。延々にては難儀たる可く候。方々より一族馳集候ば縦(たとえ)日本国の勢を以て攻られ候とも一且は叶候まじ。承候へば折節館には人無き由承候。僅かに百騎には過候まじ。長高(如)何に武しと申共無勢にて候へりは何事候べき。時刻を移さず早寄給え。

 

1333年4月17日(元弘3年3月3日/正慶2年3月3日)頃

伯耆国小波城を接収した佐々木清高と合流し、早急に船上山の名和長年を攻めるよう梶岡入道と共に進言するが、進軍を開始しようとしたところを佐々木清高の執事、田所某に制止されている。(伯耆之巻 「群書類従所収」)

船上山の大手、東口の戦いでは先陣として東坂に布陣しているが、船上山の戦闘で戦死とする。

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