東伯郡北栄町に所在したと伝わる古城跡
由良城
宿久藻塚(宿藻塚)、糘塚、寺屋敷跡とも。由良ノ郷由良村に所在とする。
伯耆民談記では杉原盛重の持城とし、家臣の木梨左馬助が在番とする。天正10年の芸京和睦で木梨左馬助は尾高城へと移され、南条氏の領有としている。
城跡付近には馬込(馬籠)の地名があり、城跡から北西には陣場野の地名があり、天正年間に吉川元春が南条氏を攻めるために陣地跡としている。
陰徳太平記 巻六十 元続直重討欲事、巻六十一 伯州長郷田合戦之事、巻之六十八 伯州高野宮城合戦之事などに記述が見え、杉原氏、木梨左馬助、木梨中務大輔、一条東市ノ介清綱、一条市介などが居城と伝わる。
尼子氏の書状には天正8年10月22日付に「(略)並に由良之要害去る廿八日落去ノ由」とある。
天正10年8月、吉川元春襲来の報を聞いた一条東市ノ介清綱は戦わず羽衣石城へ逃れたため廃城になったとする。(伯耆民談記)
大栄町誌では耕地と水源池にされ、全く痕跡が判らないとしている。
北栄町由良
穂波城
詳細は不明だが土着の武士による築城で由良城の別名、或いは由良要害を形成する諸城のひとつと推測される。
穂波村は本河野家が本家で、元寇の役にて功績があった伊予国の住人、河野氏の一族とする。
後に毛利元就に攻略され安芸へと連行され小早川隆景の家臣になったとしている。(大栄町誌)