伯耆国 会見郡

ひえづやしき

日吉津屋敷

日吉津村 日吉津屋敷

所在地

鳥取県西伯郡日吉津村富吉(小字古屋敷)

城 名

日吉津屋敷(ひえづやしき)

別 名

比江津屋敷(ひえづやしき)…永禄十年の杉原盛重からの安堵状に見える「日吉津」の表記。

 

裨津屋敷(ひえづやしき)…雲陽軍実記に見える「日吉津」の表記。

 

古屋敷(ふるやしき)…字名に因む呼称。

築城主

田口修理進

築城年

1535年(天文4年)以前

廃城年

1702年(元禄15年)7月18日

形 態

居館

遺 構

不明 ※1702年(元禄15年)7月18日の洪水により消滅とされる。

現 状

田圃、畑地

備 考

史跡指定なし

縄張図

不明

城 主

伯耆山名

田口氏

伯耆山名氏から池田氏に亘って忠節を尽くしたと伝える一族。

城 主

尼子

田口修理進

日吉津大明神の神主として招聘される。

須山玄蕃

 

城 主

毛利

杉原

田口千代若

杉原盛重より社役安堵を受けている。

城 主

中村

田口孫市

中村氏より寄進が行われている。

参考資料(史料及び文献、郷土史など)

伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻一 大正5年6月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

紀氏譜記(1761年 進庄兵衛)

伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)

伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)

伯耆民談記(昭和35年3月 印伯文庫)

陰徳太平記[香川正矩 編](明治44年5月 犬山仙之助)

雲陽軍実記[河本隆政 著](明治44年11月 松陽新報社)

日吉津村誌 上巻 -歴史と神事を中心として-(昭和61年9月 日吉津村)

日吉津村誌 下巻 -歴史と神事を中心として-(昭和61年9月 日吉津村)

年 表

1429年~1438年

永享2年~永享10年

佐陀村の佐陀神社周辺に進太郎左衛門が土着し周辺地域を領有している。

1567年

永禄10年

3月26日、杉原盛重より二代目神主、田口千代若に対し社役安堵が行われている。

1571年

元亀2年

3月中旬、尼子方の羽倉元陰が率いる軍勢により稗津の村が放火されている。(雲陽軍実記 羽倉孫兵衛米子城合戦討死并秋上反心毛利一味之事)

1591年

天正19年

12月20日、吉川氏より天照大神領として神田社領高が決定される。

1601年

慶長6年

10月26日、中村氏より二代目神主、田口孫市に対して寄進が行われている。

1702年

元禄15年

日野川の氾濫による大洪水を受け、元荒神を残して集落の多くが流出とされる。

元荒神の案内板では1703年(元禄16年)の出来事としている。

1772年~1780年

安永年間

住民が村外(福吉村や中島村)へ流出していったとしている。

概 略

元荒神が鎮座する往時の日吉津村西端、日野川の東岸近くに古屋敷の存在を伝える。

往時の日野川は現在より東側、元荒神の祠が鎮座する小字古屋敷の辺りを流れていたとするが氾濫の多い川であり、大水の度に流路を変えている。

1702年(元禄15年)の氾濫では大洪水を引き起こし、古屋敷周辺を押し流すと現在に近い流路へなったと記録に見える。

元荒神の案内板では大洪水を1703年(元禄16年)の出来事とし、安永年間(1772年~1780年)頃から住民が村外へ流出していったとしている。

 

当屋敷についての詳伝はなく、大字「富吉」の小字として「古屋敷」「下古屋敷」「上古屋敷」の他、「御建山」「小丸」「上屋敷」など城砦に関係がありそうな地名を伝える。

小字「古屋敷」から東へ約200m、大字日吉津の小字「南屋敷」「北屋敷」に蚊屋島神社が鎮座しており、周辺に「宮下」「宮ノ前」の地名が見える。

境内から南側には「長者道」と呼ばれる参道があり、かつては進氏の本拠地であった坂中村、長者原村まで一直線に続いていたとする伝承を残すが日野川の氾濫によって流され、現在の春日周辺の痕跡が不明瞭としている。(日吉津村誌)

村内の小字名には「善右衛門堀」「樽屋々敷」「海川屋敷」など、海上運輸を掌った施設の所在を伺わせる地名が見えることから社地の周辺には往古から海上物流の拠点となる港湾施設が存在し、長者原へと続く長者道や日野川を利用して物資の運搬が行われていたとも推測される。

 

伯耆志 佐陀村の条

村の南々面の社にて東西二十五間、南北三十六間の地に在り。祭神伊弉諾尊、 伊弉冉尊を称するは誤りにて大己貴命、蛆貝比売とする旧説あり。(田蓑日記に見ゆ)又、猿田彦神とする説あり為に略す。

当社は古え大山仏教院当村の進太郎左衛門共に議て出雲の佐陀神社を移し祭ると云えり。今社地の傍なる一小民此進氏なり。旧は権神主にて古き棟札に其名見えたり。下に記する箕村進氏と一家なり。太郎左衛門が霊社々地に在り。貞享四年、馬場村内藤氏が社帳に左田村進忠兵衛郡中社主に列して印判せり。(略)

 

1429年(永享2年)~1438年(永享10年)頃、佐陀村の佐陀神社周辺に進太郎左衛門が土着とあり、伯耆国佐陀館の築城が推測され、規模は二町四方の敷地に周囲を堀が巡っていたと推定している。(伯耆志、日吉津村誌)

当村を領有した進氏は権神主として、奈良県高市郡田口村より田口ノ臣(蘇我氏から藤原氏へ移った一族)の子孫とする田口修理進を日吉津大明神の神主として招聘している。

神主の館として当屋敷が宛がわれ、田口氏累代の居館となった可能性が推測される。

田口氏伯耆山名氏から池田氏に亘って仕え、忠節を尽くしたとしている。

 

1571年(元亀2年)3月中旬、尼子残党の猛将、羽倉元陰の率いる五百余名が伯耆国米子城の城下町を襲撃している。

米子城が目立った抵抗を見せなかったことから杉原盛重が伯耆国尾高城を留守にしていると悟った羽倉元陰尾高城へと進軍。

敵方の動きを見極めるため用心深く進行し、道中は稗津の村で放火を行っている。(雲陽軍実記 羽倉孫兵衛米子城合戦討死并秋上反心毛利一味之事)

 

伯耆志 日吉津村の条(杉原盛重安堵状)

比江津神主職之事預置候全有裁判社役等之義堅固可被相勤もの也仍一行如件

永禄十年三月廿六日 盛重

神主 田口千代若殿

 

1567年(永禄10年)3月26日、杉原盛重より二代目神主、田口千代若が社役安堵を受けている。

安堵状から裁判による決着が成されているため、田口氏に対抗した勢力が存在したことを確認できる。

 

1591年(天正19年)12月20日、吉川氏より天照大神領として神田社領高の決定が行われ、香川雅楽之介山縣九左衛門有福助右衛門の3名が連判している。

元来は「天照高日女神」が祭られていたが、吉川氏の安堵状の頃には「天照大神」と誤って記述されており、伯耆志でも度々誤りであることが指摘されている。

 

1601年(慶長6年辛丑年)10月26日、中村氏より二代目神主、田口孫市に対して寄進が行われている。

村田市兵衛石川茂兵衛三田善八道家長右衛門の4名が連判している。

田口千代若田口孫市は共に二代目神主とされていることから同一人物とも推測される。

 

往時の蚊屋島神社は日吉津大明神や伊勢宮と呼ばれ、天照皇大神宮、日吉津ノ宮など幾度も改称を受け、明治維新の頃に現在の名称へ改称されている。

旧来は小字「堀廻」に鎮座する上部神社内地が旧社地と伝えられている。

 

蚊屋島神社から東側には小字「清水屋敷」「小路屋敷」、更に東端の村境には「両徳寺屋敷」など寺院に関係する屋敷の地名が残り、伯耆志には蚊屋村に曹洞宗の「白應山両足寺」の存在が記述されている。

 

1702年(元禄15年)、日野川の氾濫による大洪水を受け、元荒神を残して集落の多くが流出とされる。(元荒神の案内板では1703年(元禄16年)の出来事とする)

安永年間(1772年~1780年)には住民が村外(福吉村や中島村)へ流出していったとしている。

写 真

2022年1月8日

元荒神と古屋敷周辺

元荒神

元荒神

元荒神

元荒神

元荒神

元荒神と大山

遠望

古屋敷の遠望

遠望

古屋敷の遠望

遠望

蚊屋島神社遠望(南側)

蚊屋島神社

蚊屋島神社鳥居

蚊屋島神社

鳥居前から長者道

長者道

蚊屋島神社参道

長者道

蚊屋島神社随神門

蚊屋島神社

蚊屋島神社境内

蚊屋島神社

蚊屋島神社境内

蚊屋島神社

蚊屋島神社境内

蚊屋島神社

蚊屋島神社社殿

蚊屋島神社

蚊屋島神社社殿

蚊屋島神社

蚊屋島神社社殿

蚊屋島神社

蚊屋島神社土塁(南側)

蚊屋島神社

蚊屋島神社土塁(北側)

蚊屋島神社

蚊屋島神社土塁(北側)

蚊屋島神社

蚊屋島神社由緒

蚊屋島神社

両徳寺屋敷跡

両徳寺屋敷跡

羽倉地蔵

羽倉地蔵

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