伯耆古城図録

むなかたとりで

宗像砦

鳥取県米子市宗像

別 名

遺 構

郭跡、堀切、土塁

溝状の痕跡は古墳の石室跡の可能性が高い。

現 状

山林、宗形神社、宗像古墳群

城 主

不明

築城年

不明

廃城年

不明

築城主

不明

形 態

山城、海城

備 考

史跡指定なし

参考文献

伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻三 大正5年9月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)

伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)

伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)(昭和35年3月 印伯文庫)

宗像神社由緒(昭和59年7月)

米子市埋蔵文化財地図(平成6年3月 米子市教育委員会)

縄張図

米子市埋蔵文化財地図に図示あり

 

概 略

宗形神社の鎮座する山中(宗像古墳群)に所在する。

宗形の地名は時代により当字が変わっており、平安時代は宗形(日本文徳天皇実録)及び胸形(延喜式)、明治初年頃は宗像、1871年(明治4年)以降は宗形と変遷している。

 

宗像古墳群が所在する山塊には伯耆国奥谷城や伯耆国高山砦が所在しており、伯耆国石井城の属城として東~南方面の監視や伝えを担う城砦が推測される。

山中の古墳を転用し墳墓側面の高低差を切岸、墳墓と墳墓の間を堀切として利用するなどの転用が考えられる。

 

東側を流れる加茂川(四反田川)を天然の川濠と利用した場合は伯耆国戸上山城へのラインが分断される形となるが、太古の宗形神社の伝説では宗像村と長砂村の境界付近までが入江であり船場の存在も記されていることから舟を利用し戸上山城との連携を図った可能性が考えられる。

伯耆志が編纂された頃は田土となり100坪程度の茅の茂る船塚或いは茅島と呼ばれる小さな丘があったとするが昭和初期頃には葦の茂る1坪程度の砂地であったとしている。

 

戸上山城石井城の城主が古曳吉種であった頃は伯耆国石井屋敷石井城と伯耆国七尾城奥谷城~当砦~伯耆国太鼓山砦戸上山城を防衛ラインとし、出雲街道(会見郡方面)からの侵入に対する備えも想定される。

 

城砦跡を示す直接の記述は見えないが中腹に鎮座する宗形神社については伯耆志や伯耆民談記に記述が見える。

 

伯耆志 宗像村の条

(略)古棟札は弘治二年四月七日尼子晴久云々とあり。又、吉川氏寄附と云いて僧空海書写の仏画一軸を蔵す。(略)

 

伯耆志 宗像村の条 禁山の項

村の西に在り。宗像神社の旧地なり。又、長砂村境内に船塚、又、カヤ島と呼びて田土の中に小丘あり。宗像神の船其所に泊りしと云へり。

 

伯耆民談記 宗像ノ神社 会見郡宗像村の条

(略)是は雲州尼子式部大輔晴久当国を管領したる時、再興せられ(略)当社退転数度に及びたるに、天正の頃吉川駿河守元春、再興あり。其後中村伯耆守忠一の時、社頭美々敷造営有って、社領百二十石を寄附せらる。古へはやぶさめ神事共も有りしにや。馬場的場の趾今において分明に遺れり。

 

1556年(弘治2年)、尼子晴久によって宮ノ谷から現地へ移され300石の寄進を受けている。

宮ノ谷の旧社地は現地より北へ3町(約330m)の地点とされる。

伯耆民談記では佐々木高綱による造営の伝説が広まっていたとあるが誤りとしている。

 

その後、洪水などで退転を繰り返したとあり、天正の頃(1573年~1586年)には吉川元春による再建としている。

神社の退転理由に洪水を上げているが、周辺情勢から永禄~天正年間に会見郡周辺で尼子氏毛利氏が争った頃の兵火による罹災も考えられる。

 

宗形神社由緒では吉川元春による再建時に太刀及び桃形兜が奉納され、併せて120石の加増寄進としており、中村一忠は社殿修造用の材木を100本のみ寄進とある。(材木の手配は横田内膳によるものと推定される)

 

宗形神社由緒(抜粋)

醍醐天皇の延文五年(九二七)に勅撰された延喜式神祇の巻に伯耆国六社(会見郡では胸形神社と大神山神社)の一として国幣小社に列格されている。

戦国時代には武将の崇敬篤く、尼子晴久は弘治二年(一五五六)に宮ノ谷の山頂に鎮座していた社を現在地に遷して新しく社殿を建立し、社領三百石を寄進した。吉川元春(毛利元就の二男)は更に社領一二〇石を加増寄進すると共に太刀及び兜(典型的桃形の逸品で社宝として所蔵)を奉納した。中村伯耆守は社殿修造用材百本を寄進した。

 

吉川元春が奉納したとされる桃形兜(伝・吉川元春奉納桃形兜)は2017年(平成29年)に米子市へ寄贈されている。

太刀は大東亜戦争の終戦後、戦利品として米軍兵に持ち去られて以降行方不明と宮司さんより伺っている。

 

伯耆志に記述の見える吉川氏が寄附したとする空海の仏画については存在、真偽とも詳細は不明。

 

年 表

1556年

弘治2年

尼子晴久によって宗形神社が現地へ移される。

天正年間

天正の頃(1573年~1586年)、吉川元春により宗形神社が再建とある。

地 図

 

写 真

訪城日 2013/05/21、2019/05/28、2019/06/02

南東(日原橋)からの遠望

南東(宗形神社前橋)からの遠望

宗形神社入口と高低差

現地案内板

宗形神社参道

宗形神社参道

宗形神社本殿

宗形神社本殿

本堂の奥に古墳への道

腰郭状の連郭

腰郭状の連郭

円墳

平削地

平削地

円墳横の堀状の溝跡

円墳横の堀状の溝跡

前方後円墳横の堀状の溝跡

石室跡

円墳

円墳

堀状の溝跡

土塁

堀状の溝跡

円墳横の堀状の溝跡

堀切(古墳と古墳の間)

前方後円墳

前方後円墳の石室跡

前方後円墳の石室跡

古墳群の道中

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