伯耆国 汗入郡
いしうまだにこえだやまとりで
石馬谷小枝山砦
所在地
鳥取県米子市淀江町福岡
城 名
石馬谷小枝山砦(いしうまだにこえだやまとりで)
別 名
―
築城主
不詳
築城年
不詳
廃城年
不詳
形 態
丘城・海城
遺 構
郭跡(腰郭、帯郭、連郭)、土塁、虎口、切岸、堀切、空堀、竪堀
現 状
山林、天神垣神社、石馬谷古墳、小枝山古墳群
備 考
国指定史跡 昭和7年7月23日
向山古墳群として追加指定 平成11年7月13日
縄張図
宇田川村史に城跡とする図示あり。
城 主
不詳
委細不詳。
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
宇田川村史(大正4年9月 鳥取縣西伯郡宇田川村役場 足立正編)
汗入史綱(昭和12年9月 国史研究部 本田皎)
淀江町誌(昭和60年8月 淀江町)
淀江町埋蔵文化財発掘調査報告書第17集 向山古墳群-向山古墳群・瓶山古墳群・石馬谷古墳の調査-(平成2年 淀江町教育委員会)
概 略
上淀集落南方の小枝山に所在する。
山裾には天神垣神社が鎮座、山中には国指定史跡の向山古墳群の一部として小枝山古墳群が在り、石馬谷古墳(小枝山5号古墳)も含まれる。
北側を流れる柳谷川を隔てた先に上淀廃寺跡があり、戦国期には既に寺院としての機能を失っているが兵員を配置できる広大な郭としての利用価値がある。
上淀廃寺跡を郭と捉える場合、構造が伯耆国福島城と似ており、周囲を山で囲まれた盆地状の地形となるため他勢力に察知されにくい利点があり、領有した勢力も毛利氏であったことから同じような運用が推測される。
北は伯耆国北尾城と伯耆国寺内城、更に伯耆国淀江城、南は伯耆国稲吉城が一直線に並ぶことから周辺諸城との連絡を担う繋ぎの城砦とも推測され、伯耆国香原山城など東側に対する防衛ラインの構築には欠かせない存在となっている。
上淀廃寺跡南側の谷部、天神垣神社が鎮座する社地の南側尾根、石馬谷古墳の南側尾根、稲吉城北側の尾根などから小枝山の山頂へ繋がる連絡路が多く存在する。
周辺施設との接続には特化するが道中に特記するような防御施設が見当たらず、簡素な土塁や小規模な平削地、谷部の地形を利用した竪堀状の溝跡が見える程度で当城での籠城戦は想定されていなかったようである。
山中に広く分布する古墳を簡易転用した程度で有事の際にのみとする利用も考えられるが、戦国期には西側の平地は入江、或いは湿地帯であったとされることから海城としての運用も可能である。
1585年(天正13年)7月、香原山城を主戦場とした毛利方と南条方による戦闘(香原山城の合戦)があり、この時の兵火で天神社(天神垣神社の前身)は焼失している。
この頃、当地を任されていた吉川元長は四国遠征のため留守となっていることから守将は福頼藤兵衛など福頼氏が推定される。
香原山城の合戦では北尾城(高尾城)、伯耆国松尾城など周辺諸城も広く戦火に巻き込まれたとされ、天神社の焼失は小枝山にも城砦が所在していたことを裏付ける材料の一つと考えられる。
合戦の終結後、同年11月に寺内村を領有していた吉川元長により天神社の社殿再建が行われたことが棟札写に見える。
棟札写(天正十三年十一月二十八日)
(表面)
伯耆国汗入郡寺内之村天神社 依不慮劇乱災火荒廃々々然処 芸州吉川治部少輔藤原朝臣元長再興畢 善有相資之能者酬自然感徳誇武運長久床悪有滅離者領怨敵退散仍勧発旨趣如斯 本願石州仁摩郡之住僧大雄寺
于時天正拾三乙酉年十壱月廿八日欽言
奉再建天神宝殿成就本願吉川治部少輔藤原朝臣元長卿武運長久
近くでは同様に戦火で焼失した宗形神社を吉川元春が再興していることから毛利氏が寺社を通して地域の円滑な統治を行おうとしたことが伺える。
宇田川村史 福岡村の村落史
1764年(明和元年)に記された「伯路紀草稿」では天神垣神社に祀られていた石馬を福頼左衛門尉の愛馬とする伝承がある。
宇田川村史には石馬についての解説と収録されている周辺地図では石馬神社に城跡の記号が記されている。
亀山が寺内村の瓶山或いは戸構村の伯耆国富繁城を、福頼左衛門が福頼元秀或いは福頼藤兵衛を示すかで解釈できる情報は変わるが、石馬の出来が雑であることは伝えたかったようである。
写 真
2020年2月11日