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[伯耆国近辺お城&歴史関連イベント情報](2025/12/01現在)

2025/12/01

現在、伯耆国内でしろ凸たんが把握しているお城に関するイベント情報はありません。

2025/12/07

伯耆古城図録(北栄町篇)茶臼山城

在原行平の末裔とする一族の増田玄蕃有澤左京亮の居城と伝えます。

天正年間、南条氏の立て籠もる伯耆羽衣石城攻略の為、吉川元春の着陣を亀井文書が伝える一方、伯耆民談記では伯耆田後城攻略の為、吉川元長が在城とも伝えます。

「馬の山の対陣」と呼ばれる吉川元春羽柴秀吉の相対でも吉川元春本陣と伝えるもの、吉川元長の布陣を伝えるものがあり、天正年間は吉川方の重要拠点であったことが伺えます。

(鳥取県東伯郡北栄町国坂)

2025/02/28

伯耆古城図録(湯梨浜町篇)御冠山城

「馬の山の対陣」において吉川元春と羽柴秀吉が相対した際、羽柴秀吉の本陣と推定されている陣城のひとつです。

陰徳太平記では吉川元春と羽柴秀吉の詰将棋のような頭脳戦が披露され、戦闘においては吉川元長の胆力が際立って表現されています。

物語では対陣中、吉川元春によって馬の山の改修が行われますが地形を見ると当城も馬の山の一部と認識されていた可能性も考えられ、当城を含む馬の山砦松崎城を以て羽衣石城及び十万寺に相対したとする戦況が物語に一番沿う構図となりそうです。

(鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内/鳥取県東伯郡湯梨浜町宇谷)

2025/02/21

伯耆古城図録(湯梨浜町篇)御冠山城 吉川元長ノ陣

倭文神社の由緒にのみ登場する陣所です。

因幡鳥取城の落城を聞いた吉川元春は伯耆馬ノ山砦に陣容を構え、吉川元長は倭文神社周辺に陣容を展開したと伝えます。

布陣の夜、神仏の神託を受けた吉川元長は翌日に馬ノ山砦へと引き揚げてしまうため、伝承に伝える以上の情報は解りません。

(鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内)

2024/06/24

伯耆古城図録(倉吉市篇)下福田城

伯耆高城城を詰めの城とした居館部と推定される城跡ですが現時点で文献には一切の記述が見えません。

立地から考察すると詰め城としたのは伯耆高城城ではなく、伯耆高城大平山城と考えられます。

残存する遺構から考察すると水運を管理した港湾施設と考えられますが、字名に「定福寺」「阿弥陀居寺」と見えることから寺院であったことも伺えます。

※googleMapで上福田に所在とありますが、誤りのようです。

(鳥取県倉吉市下福田)

2023/07/13

伯耆古城図録(倉吉市篇)南条屋敷 / 備前屋敷

打吹公園内に鎮座する鎮霊神社の鎮座する平坦地に所在したと伝えられます。

伯耆民談記では「南条屋敷」で統一されていますが、地元では「備前屋敷」と呼ばれます。

これは城館に居住した「南条備前守」の名或いは官途に由来するものですが、ここに登場する備前守は南条元信と考えられます。

南条家で「備前守」の官途を名乗ることは家臣団でも重要な立場を担うことであり、南条元信は嫡男ではなく弟の南条信正に「備前守」を譲っています。(南条信正は後の南条元続の後見人とされます)

城歴については打吹山に備前丸を普請するために建てられたことが見えますが、廃城を一国一城令発布後か、倉吉陣屋が完成するまで存続したとするかでやや幅があります。

(鳥取県倉吉市仲ノ町)

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